「提婆進道拈針」

龍樹菩薩が. 迦那提婆尊者が来た時に 侍者に命じて水を満した鉢を置いて試したところ、尊者は針をその中に落としたという話です。
それについて、「水がひとがほんらいもっている自性清浄心をあらわしている・・・」や、「龍樹はどこにいたか。全宇宙鉢満杯の水ぎり。提婆はどこにいるか。針は提婆である。龍樹と提婆はぴったり一つ。鉢満杯の水ぎり。提婆は消えて龍樹ぎり。師匠ぎり、弟子ぎり、一体となってしまう、ばらばらではない。そのとき法が伝わる。・・・」など解説がありますが、そうではないですね。水に針が落とされたというだけなんです。
合掌低頭






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.20 2016 道元禅師 comment6 trackback0

「坐禅は習禅にはあらず」(道元禅師)

「自分という土台」をもとに、「未来の理想の自分」に向けて、「自分」を持ち運び・近づけて
いこうと(坐ることを手段として)訓練・習学するものではないのです。
「坐禅」は他の「瞑想」と違って、そういう「土台」を持たず、あらたに何かを習得していくものでなく、「坐禅」そのもの、「証」です。
だからといって、「ただ坐っているだけで良いんだ」にあぐらをかいてはいけない。
「ただ坐っているだけで良いんだという自分」が残ると面白くない。
「坐禅」によって「坐禅」がすりつぶされる。
「坐禅」をしている「自分」、「自分」がしている「坐禅」もないのです。
合掌低頭






.20 2016 道元禅師 comment0 trackback0

「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて」(道元禅師)

ただ、「分かったこと・知ること・決めこんでいること」を放ち忘れて、事実に没頭していく時、「私」を用いず、「心」をも費やさず、「解脱」です。
換言すると、「状況」にもよおされ「外向き」(実際「内」も「外」もありませんが)活動三昧=「分かったこと・知ること・決めこんでいること」は、結果的に、「私」を用いず、「心」をも費やさず、放ち忘れられるのです。
この記事のことは、お忘れになって、実行してください。
合掌低頭




.06 2015 道元禅師 comment0 trackback0

「仏の方からおこなわれて」


「自分」を不変の実体あると認識し、その「自分」の方から、証するのではない。
「自分という皮袋」の中がなくなったことが「自分」がなくなったということではないのです。
事実・法の方から、証されるのです。

合掌低頭





.26 2015 道元禅師 comment0 trackback0

「生」「死」

「私」があって、「生」があり「死」があるということではないのです。
「生」という状態、「死」という状態する「主語」がないのです。
「私」がないまま、そういう状態がその時にあるだけ。
「冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏になるといはぬなり。」(道元禅師)
冬と春のようなもの。冬が春になると思わず、春が夏になると言わないのと同様です。
「主語がない」とは、難しく聞こえるかもしれませんが、何だ、すでにやってたじゃないかと
かように気づくのです。
合掌低頭






.12 2014 道元禅師 comment6 trackback0
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