わかったら・・・


「わかった」ことから離れて事実に事実する。

「わかった」ところに腰をすえることは、そういう「これが自分」を認めることになる。「わかった」ことによって二つに分かれてしまう。
「わかった」ことを取扱説明書のように手もとに持って、「自分」を認め、その「自分」を「自分」で取り扱うことは面白くない。

合掌低頭



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.30 2014 他の療法との違い comment8 trackback0

恐怖症について

何々恐怖というのはこんなことではいかん(欠点であると決めている)というところからくるんですね。何々恐怖の治し方は、欠点であることを治したら済むかと言ったらそうでなくて、欠点であることをそのまま気にしていくと、とたんに治るわけです。平気になろう(と変えよう)と気にしないようにしておこうしたのが間違いだった。からくりがわからんでも言った通りやっていれば治る。わかろうとしなくて済む、むしろ、、なるほど、わかりましたというと落第でして、恐怖していったらよい。
(宇佐晋一講話より)

わかれば治るはずと「自分」の状況を理論で解決しようとするから治らないんです。

合掌低頭



.23 2014 全治 comment18 trackback0

青天

「青天」が目的だと、ある仏教番組で語られていましたが、そうではない。
「青天なお痛棒を喫すべし」のとおりです。
「無」・「あるがまま」と認識したら、もう、それから離れてしまう。
「全治」の「全治」知らずということです。
合掌低頭



.16 2014 全治 comment0 trackback0

「全治」の誤解

「神経症」については、いわゆる「客観的な病気・器質的な障害」とは違う。
「治る」という言葉はカルテ上の表現です。実際には、いわゆる「身体の病気」、風邪のように「客観的な病気」ではない。ましてや、脳の故障でもない。ロールシャハテストで言うと、精神状態は「健常」なのです。「健常」なのであるから、「神経症」がなりえるとも言えます。
「治る」という言葉を使えば、「神経症者」は、すでに、「治り」の場にもともと立っている。しかし、本人の「主観」では「病気」であるに違いないと強く思いこまれている。「神経症」が「主観的虚構」といわれるとおりです。
その「治り」は、今の様子とは別の「良い状態」つまり、「症状」のない状態へ、「治療的処置・訓練・薬物」によって、変容し移行することだと理解されています。これは「客観的な病気」や「怪我の治療」です。「神経症」の治療はそれとは別物なのです。
合掌低頭




.08 2014 全治 comment1 trackback0

以心伝心

コップからもう一つのコップにに水を移すように、これから、何かを伝えてもらうのではなく、すでにこうあるまま。こう伝わってあるそのまま。
合掌低頭



.01 2014 あるがまま・如如 comment0 trackback0
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