無無明亦無無明尽(般若心経)

「神経症」があるのではないし、「神経症」が尽きるのでもない。

合掌低頭




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.29 2014 あるがまま・如如 comment2 trackback0

観念的な取り扱いをやめる

「このもの」(この「身体」)を「私」「自分」と思いこんで、観念的な取り扱いでどうこうしようとしたのが「脱線」のはじまりです。

その「自分」を不変・固定的なものと認め、「自分」をもち運んでの「修行」ではないんです。
「考え・教え」を先に掲げて、「考え・教え」のとおりになろうとするでしょう。「考え方」でなろうとすることをやめる。
いくら修行しても、「考え」から一歩も出られないのです。
「あるがまま」ときくと、「あるがまま」という態度・姿勢をつくるでしょう。(そうだとしたら・・・)
そういう観念的な取り扱い(「つくり事・はからい」)をやめる。
すでにそうなんだから、不要なんです。

(「自分」の方からでなく、)「事実」(「縁」によって変化していく生活状況)に(動こうとしなくとも)動かされていくんです。
鳥が鳴けば鳴き声が聞こえるように、必然的に活動するようにできているのです。
そういう作用にまかせていくのです。

合掌低頭




.21 2014 他の療法との違い comment4 trackback0

十劫

大通智勝仏という方が十劫という長い間、坐禅したが成仏できなかった話があります。
それはなぜか?
「今」の状態のほかに「悟り(の自分)」を求め、「坐禅」を手段方法につかったからです。
坐禅そのもの(実生活)がすでに「悟り」(療法として言えば「全治」)であるのです。

すでにそうである(自忘して実証する要がありますが)ところに、
余計なこと(病気と認識し治そうする)をして、
みずから、苦しめているのです。

合掌低頭






.15 2014 全治 comment10 trackback0

「煩悩即菩提」

「煩悩」のままであれば、「煩悩」は「煩悩」でない。
「神経症」という「法」。「全治」という「法」。
「法に異法なし」。
合掌低頭




.07 2014 あるがまま・如如 comment2 trackback0
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