ある僧侶の話

カッコ内がこの僧のメッセージで、コメントさせてもらいました。

>「自分に対して仏教を処方する、癒す」
これはおすすめしません。十分ご承知でしょう。

>「怒りを観察してそれをスル―する」
観察してスルーしようとする分、余計なことです。スルーしようという時(認識した時)には、それ自体もう過ぎ去っているのです。「怒りそのまま、怒りと一体にある」ことと「怒りの行動」に出るということは別です。「心」は怒っていて、それに関係なく、「行動」はその場に応じて必要な事をすることでよいのです。「心」と「行動」が不一致だと ロジャーズ派のカウンセラーに反論されるかもしれません。「状況に応じた行動」ができていれば問題なし。実際は、「行動」した瞬時、「心」も同期してしまうのです。

>「認められたいをやめませんか」
「承認欲求」をやめる前に、「承認される自分」を認めないこと。「欲求」をやめようというのは「欲求」にふりまわされているんでしょう。やめようとすると「心の用事」になり、「自分」対「自分」の葛藤になります。ですから、「欲求」を使ったらよいのです。

合掌低頭



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.24 2014 他の療法との違い comment0 trackback0

「仏法」と「仏教」


「法」とは、分かること以前、「今」ということ。「私」という介在がないのです。
「平常是道だ」「祗管打坐すればいいんだ」「百千の経巻ここにあり」という「教え」の上だけで納得し、そこにあぐらかくことはおもしろくない。
ですから、「法」に実証されるのです。
そして、「月」を見たら、「指」もそのものであったと知るのです。
すべてそのものですので、「そのもの」もない。
「影」も「形」もなく動かされ動く。

合掌低頭




.17 2014 あるがまま・如如 comment0 trackback0

無眼耳鼻舌身意


「身心」(=「私」)を中心に用事するからおもしろくない。
「身」「心」と呼ぶ、これら、「見方」であり「考え方」なのです。
その「身」「心」から離れてしまおうと、
また「考え」で離れてやろうとするとうまくいかんのです。
「考え」を止めようとも考えない。一切のはたらきのまま。
「縁」に動かされ、「ただ、生活」時、実は、すでに離れておる。

「ただ」という「ただ」もなく、「生活」という「生活」もなく、「縁」という「縁」もなく
「縁」に動かされ、「ただ、生活」。

合掌低頭



.10 2014 あるがまま・如如 comment0 trackback0

行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄


「思い」は「思い」のまま、一切のはたらきのまま、事実に実事する時、
「これが神経症の自分」という「虚構」「思い」は、出るまま消えるまま、常に流動する事実そのものの中に、「眼前の・・・事実」・「・・・の自分」としてつかめるものもなく、「問題」も成り立たないのです。
合掌低頭





.03 2014 あるがまま・如如 comment0 trackback0
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