「生死は仏の恩命」

道元禅師の言葉です。
「生きている限りはできるだけやります」という方がいて、宇佐先生は、そのように限定することがまずいとおっしゃる。
「死んでも」といわれます。面白いですね。

合掌低頭



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.29 2014 あるがまま・如如 comment4 trackback0

「不満足の満足」

「不満足」にある時、「不満足」にあるまま、ありきる。
そうしますと、「不満足」という状態だけになります。宇宙全体がそれだけになれば比較がなくなり、「不満足」は「不満足」でなくなるのです。
そのような、「不満足」でも「満足」でもない状態が、真の満足と言えるでしょう。

合掌低頭



.23 2014 あるがまま・如如 comment4 trackback0

無事

ある摂心の時の独参で作法に従い、老師の前で礼拝をしました。
礼拝が終わるやいなや老師は、「あなた、何に礼拝したんですか。」「言い換えますとね、、、礼拝した対象はありますか。」と言われたのです。

合掌低頭



.15 2014 あるがまま・如如 comment6 trackback0

「事実そのもの」と「観念」

釈尊の6年の苦行は、「考え」をもって「自分」という「中心」が「ある」として認識し、その「考え」の上で「名札」としての「自分」をこうしようああしようとし尽くしてダメだったんです。
おのずから、「考え」の中での(「自分」対「自分」の)工夫が止んだのでしょう。
「考え」「名札」以前の世界だけに浸りきっていたところ(「事実そのもの」にあるまま)、
「問題」がなかった。

「考え」「名札」以前のあるままの状態(「中心」・「土台」がなく、「因」「縁」によって出て、消える)と、「事実」という「名札」で概念化・固定化される「考え」とは別だったんです。
つまり、
「事実そのもの」と「観念」は別だった。(どちらも「法」ではあるものの)

ところが、
「言葉」「考え」に置き換えられた固定した「観念」「概念」「情報」を(すぐに色が変わるような)ナマの事実の状態と錯覚し、それを不変の「固定したもの」として、「考え」をもって手を付け、振り回され、苦悩していたのです。
言い換えれば、
「事実そのもの」から離れた、情報化された「考え」の中で、もと「問題」ないところに「問題」をつくり苦悩していた。

「考え」をもって手を付ける以前、こうしようああしようとしないですむようすでにできてある、そのまま、生活。

合掌低頭



.08 2014 あるがまま・如如 comment20 trackback0

神経症の範囲

「神経症の範囲」とは、森田先生の後、さらに宇佐先生が付け足した話です。
そういう実体はないのですが、「神経症」が実体としてあるという方に合わせた話です。
さて、皆さんおわかりでしょうか。

合掌低頭




.01 2014 他の療法との違い comment20 trackback0
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