「仏の方からおこなわれて」


「自分」を不変の実体あると認識し、その「自分」の方から、証するのではない。
「自分という皮袋」の中がなくなったことが「自分」がなくなったということではないのです。
事実・法の方から、証されるのです。

合掌低頭





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.26 2015 道元禅師 comment0 trackback0

「心的葛藤」のまま

「心的葛藤のままでよい」という話が三省会で出ました。
「心的葛藤のままでよい」を間違いますと、「自分」で「自分」を観察して、「自分の状態」を「よい・わるい」と評価する「自分」が残ります。
「自分をこういう状態にしておいたらよいのだ」という「見解」をもって「自分」を取り扱うこと、
つまり、「心の用事」になっては面白くないのです。
「葛藤する自分」対「それを観察、評価し、処理する自分」になってしまうからです。

「心的葛藤」・「自分対自分」は、事実はありえない。比較する「対象」がないからです。
できるように思えるのは「考え」の中だけです。
事実より、「考え」を先行させてはならないのです。

さて、
「心的葛藤のままでよい」(=「内向き」の用事なし)と表現された実際は、
「外向き」の生活ということです。
「外向き」の生活と申しても、何もバタバタ動くだけではありません。
入院第一期のように横になるままにあることもある。入院第二期のように眼に映るもの映じるまま観察することもあるのです。(いつも申すように「内」「外」があるわけではありません)

合掌低頭





.19 2015 あるがまま・如如 comment8 trackback0

「宇佐療法を続けてほしい」

三聖病院で開催される最後の三省会の中で「宇佐療法を続けてほしいんですが、・・・」
というご意見が出ました。
病院は取り壊されるということですが、三聖病院だけが「道場」ではありません。
それぞれの「場」・「時」が「道場」、それぞれで、できるんです。

宇佐療法は、宇佐先生という「カリスマ」から、足りないところを補うかのように、アドバイスを受けて、わかったことを、「自分」に応用して取り扱って行くことではありません。(何ものでもない「このもの」を「自分」と認識し)取り扱い説明書のごとく分かったことをもって、「自分」が「自分」を取り扱わない・持ち運ばないことです。
「カリスマ」なし。「思想」なし。事実が言わば、「先生」。
「千聖不伝」とあるように、これから新たに足していくことではありません。
「以心伝心」とあるようにすでに出来上がっておるのです。
「自分」に用事なし。用は「眼前」「外」です。

「宇佐療法を続ける」という実際は、(「外向き」)生活(即道)です。
具体的に申すなら、三省会に参加されたなら、準備にあてる時間があれば手伝う。参加費を払う。席に着く。話しの時は話す。話を聞く時は聞く。休憩時間に正月の会で、ぜんざいが用意された。では、それを運ぶのをお手伝いする、かたづけをお手伝いする。または、席にいて、頂く。あるいは、トイレの時はトイレに立つ。会が終われば、かたづける。座布団を運ぶ。そして、または、何もしないでただ坐っておることもあるでしょう。帰りの時間、挨拶する。帰る。・・・そういう実際です。
環境と一如のまま状況に動かされていく。
座布団一枚運ぶこと自体、仏行の完了、療法上で言えば、「全治」(と仮に呼ぶ状態)が(わかることから外れて)成り立つのです。
「思いもよらず」「考え・教え」によらず。知らずに。

「でも・・・」とおっしゃって、もし、また、「自分」を取り扱い持ち運び、「自分」対「自分」作業するなら、そのこと自体が、「神経症」再開スイッチON。自ら迷わせているのです。
ただ、(「外向き」)生活の実行です。

合掌低頭



.12 2015 他の療法との違い comment18 trackback0
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