「玄旨」

「工夫は、ただ、人我の見を離る。
見を離るるの機要、
内虚にして、外事あるのみ。
これ人我を離るるの道。
これ坐禅の玄旨なり。」
(井上義衍老師)

「見」を離そうとしたら、いけません。
「工夫」とはただ(そのまま)実生活ということです。
結果として、「見を離る」のです。

「内」を虚にする段取りの後で、「外向き」の事をしなさいというのではありません。
「外向き」の事だけで足りるのです。

「外事あるのみ」というは、(禅とか、宇佐療法の話とか、何も教えも予備知識もなく、「外」「内」という話も出す余地のない、その場その時の状況いっぱいいっぱいの、いきなりの、)実生活です。
「外事」(眼前)に「一如」に動かされてあるようにあることが、自動的に(本人がわからずに知らずに)そのまま「内虚にして」と同時に(結果として)あるのです。
何故かと言えば、意識は、同時に、二つに向かうことができないからです。

合掌低頭





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.23 2015 あるがまま・如如 comment5 trackback0

「わしがあみださまになるんじゃない」


「わしがあみださまになるんじゃない、あみださまの方からわしになる」(浅原才市)
念仏していると「あみださま」が「私の心」に入ってくるというんじゃないですよ。
もともと、「あみださま」だといいたいんです。
ですから、「わし」もない。「あみださま」もない。
「わし」を認めて、「あみださま」を向こうにおいて、近づいてゆくような「修行」をしない。
もともと、「あみださま」というようなところに、そのようにすればするほど「脱線」するのです。
合掌低頭




.15 2015 あるがまま・如如 comment5 trackback0

「でも」・「ても」


「めんどうでもやる、苦しくてもやる」の「でも]、[ても」は葛藤になることがあります。
ですから、「めんどうのままやる、苦しいままやる」のほうがよいです。
さらに、単に、「やる」は、よいです。
「めんどう」、「苦しい」の状態が、その時一時的にそのように「ある」だけです。
「めんどう」、「苦しい」という概念で固定的にくくってしまわない方がよいのです。
合掌低頭




.08 2015 あるがまま・如如 comment0 trackback0

「残りもの」

「わかった」「知った」「決着した」ことがあっても、大事に残して持っていてはいけません。
「わかったこと」を認めると、「わかったこと」と「わかった自分」が立ちあがり、面白くない。
そして、「わかったこと」を「自分」に応用すれば、いわゆる「禅病」と呼ばれます。
「仏教」、「宇佐先生の講話」、「宇佐療法のブログ」も、ナマの事実そのものではない点、
ひとつの「妄想(もうぞう)」といえます。

合掌低頭



.02 2015 他の療法との違い comment0 trackback0
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