自己意識内容を概念化しない理由

(宇佐晋一 自己意識内容を概念化しない理由より引用)
神経症性障害(神経症)は「治そうとする病気」という、過去のいやな出来事に対してのとらわれであり、「用心の病気」という、未来の不幸を予測して回避しようというとらわれの一面を持っているとも言えよう。とらわれの対象は外の世界にあるとしても、とらわれの現象は例外なく自分の安心を目的にしている。自分対自分の問題なのであって、すべて自己意識内容の事柄である。神経症性障害はこうした人情の中に安心を求めて発症する。はたして、自己のイメージはその動揺に耐えうるものであろうか。十分検討しておく必要がある。精神医学的に見て・・・
第一に、自分のイメージは見られた姿だけであって、見ている自分はわかろうとしてもわからない。いわば片面の認識であることはいなめない。
第二に、自分のことは自分が一番よく知っていると言って、他人の批評をかわそうとするが、自己を知るというのはイメージに過ぎない。言葉や考えで作りあげられたものであり、真の自己ではない。外界の事象を把握しそれを情報として伝達することに便利な抽象的論理的な思考も、自己の内界を見極めようとするときには、それらをもちいると、自己を抽象的に論理化してしまうので、まったく事実でないものをつかむことになり、不向きであると言わざるを得ない。
第三に、自己を概念化してとらえたとしても、常に流動的に変化している心の事実をとらえられない。言語はものごとを形あるものとして固定してしまう性質をもっているからやむをえない。
第四に、言葉には限界があり、その不十分さを補って外国語を援用するのだが、微妙なところは表現できない。言葉にも限界があって心の中は「いわく言い難し」であり、筆舌に尽くし難い。
第五に、自分については思い込んだ通りにしか、考えられないという、やむをえない事情がある。客観的に内省しているつもりでも、主観的にならざるを得ない。
第六に、しばしば、その判断に感情の影響によって自己暗示に陥り、自己批判の乏しさから過信の現象を知らず知らずのうちに引き起こしかねない。以上六つのどれ一つとっても、本物の自分の姿は妨げられて把握できないのである。
(引用終わり)

「とらわれ」についてですが、「とらわれ」は、「概念」なしにありえないんです。
「考え」は新たな「考え」が浮かぶと前の「考え」は消えてしまうので、「とらわれ」を保持することができないのです。ひとつひとつ、「その時その場」で、終わってしまってるのです。
「とらわれている」と思えるのは、「自分はとらわれている」という「概念」に括られているからです。
合掌低頭













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.13 2013 他の療法との違い comment0 trackback0

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