「事実」が先

「この療法の入院生活は、人間味ある優しさなど微塵もなく、TVで見た禅寺の厳しい修行と同様に違いない、果たして、勤まるのだろうか」と悲壮な思いで、入院される方がおられました。回復され、退院後の体験発表の時、当時を振り返って次のように話がありました。
「私は、事実より自分の思いを見ていた。」

「自分」が「自分」にだまされていたんです。「事実」を対象化し、その上に「自分の見方」を貼りつけた「名札」を「事実」としていたのです。
「自分の思い」=「事実」ではないのです。
こういうことは、いくら、話を聞かされても、体得しないと腑に落ちないのです。
合掌低頭




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.26 2015 あるがまま・如如 comment10 trackback0

Comment

ただいま
不識さん

ご無沙汰しております。

あれから、自分なりにやっておりました。しかし、どうも‥です。

昨日、このブログの「分かること」と「治ること」は別

http://miroku18.blog.fc2.com/blog-entry-101.html#comment648

を見ておりまして、8月23日に不識さんからの返信に

「>周囲の状況にもよおされてとは、

極端な例でいうと、車が近寄ってきて、思わず身を引くことがあるでしょう。あるいは、聞こうとしなくとも、聞きたくなくとも、聞こえる救急車のサイレン。

「自分」の「分別」介在する余地がなく、「このもの」と「状況」が「無分別」に、知らずに、動いていることがわかります。
「自分」という「概念」による主語(「私」)を持ちだして、こうだ、ああだ、とする「動き」と、「周囲の状況」にもよおされて、「自分」という「概念」が持ち出される前の「動き」が(強いて言えば、とりあえず)あるのです。
(実はそれらも違いながら同じなのですが)」

引用ここまで

を読み、確かにこのことは、何度か聞かされたことですが‥

実は、車を運転する時に、右だ、ハンドル回せ、戻せ、とやって運転していない
ことと同じであることが分かりました。

用を足したくなって、トイレへ行って足すことも、歯磨きをしようと歯ブラシを
持って歯磨き粉を持って歯を磨くことも。
ブラシを、右だ、上だ、強く、など、考えないで磨いております。

こんな、なんでもない日常の動きが、自分の計らいとは関係なく、自動的になされているのだと思いました。

あ~不識さんが言われる「目の前の状況にもよおされて」とはこのことなんだと
思いました。

その夜、寝ながら心臓の音がします。自分の計らいとは関係なく、ドク ドク と
打っています。それも同じことだと思いました。

最近、テレビでよく千日回峰行のことをやってますが、あんな苦労しなくても、今、自分がしている、その何でもない動きが、「道」であり、
計らい、概念化を出るにまかせて、淡々と生活することと感じました。

ただ、私は、いままでやって、「分からん、どうすればいいんだ」と苦しんだ、そのことが、なんてことない、その「分からん」と言っている計らいとは、全く関係なく、自動的に行われる日常の生活であると分かっただけです。

これからは、その日常の生活を送ることと思います。
そうすれば、

「 実はそれらも違いながら同じなのですが」

ここが理解できることと思います。

ただいま
2015.10.29 10:10
ただいま様へ
>ブラシを、右だ、上だ、強く、など、考えないで磨いております。

「考え」が出ても問題ありません。

>なんでもない日常の動きが、自分の計らいとは関係なく、自動的になされているのだと思いました。…言われる「目の前の状況にもよおされて」とは…

繰り返しますが、そういうことは無意識に行われている、だから、無意識は良いというのではないんです。
そもそも、無意識にすべて行われているとは言い切れません。
そして、無意識がすべて良いかと言うと、ブレーキとアクセルを踏み間違えることもあります。

目的は、「心」ではないということ。
つまり、意識的でも無意識でもなく、車を運転する時は、「状況」に従って、安全に目的地に着くということです。

>その夜、寝ながら心臓の音がします。自分の計らいとは関係なく、ドク ドク と打っています。それも同じことだと思いました。

「心臓の音」が別にするなら「心臓の音」になったらよろしい。
さすれば、「自分」がないと頷けます。

>千日回峰行のことをやってますが、あんな苦労しなくても、今、自分がしている、…

「これが自分」を認め、そういう「自分」を中心として、修行が行われると、(「これが自分」を磨きあげて立派なものしようとすると)、まったく違った方に進んでしまうのです。
釈尊の「苦行」6年は、それだったのです。

>自分がしている、その何でもない動きが、「道」であり、

そうです。
「不安」の時「不安」も「道」です。
「分からん、どうすればいいんだ」も「道」です。

>自動的に行われる日常の生活であると分かっただけです。

「分かった」だけ、…そうです。
「分かった」「分からない」も同じこと、「考え」の中で右~左移動しているだけです。
「事実」に関係ないのです。何年も何年も懸命に「分別」の中で解決しようとしている方がいらっしゃるが、「事実」に関係ないのです。

>その日常の生活を送る

そう、如淨禅師のもと、道元禅師もそういう日常を送っていて、「これが私」を忘れたまま、「坐るというはたらき」そのものの時、隣単の方が、居眠りでバシッと警策をうけ、「これが私」以前にそのものであったと気づいたということです。「思い」「概念」「見方」「考え」以前に、「法」に証されたんです。そういう日常の生活を送るとそういう時節があります。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.11.02 19:07
ただいま
不識さん

いつも反面教師であります。

>目的は、「心」ではないということ。
つまり、意識的でも無意識でもなく、車を運転する時は、「状況」に従って、安全に目的地に着くということです。

記事「「分かること」と「治ること」は別」
http://miroku18.blog.fc2.com/blog-entry-101.html

の わやさんのコメント

■治りませんと言われると、分別しないように、分からないままにしがちですが、生活仕事の工夫改善。やらなければいけないことが、たくさんありますのでそれの処理をします。

この意味が分かったように思います。
やらなければいけなことをすれば、どうなる?
が引っ付いてました。

この記事を読んで、そうか、と
実際、しなければいけないが、と放置していたことを、やりました。
溜まった事務処理も、部屋も片付きましたよ。
でも、そこには、で どうなる?どうなった?がありました。
これは、

>「これが自分」を認め、そういう「自分」を中心として、修行が行われると、(「これが自分」を磨きあげて立派なものしようとすると)、まったく違った方に進んでしまうのです。

でした。

わやさんに刺激され、5ヶ月間経ちましたが、この意味がよく分かっていなかった。

昨日は所要で外泊しましたが、
朝起きて、支度して、新幹線に乗って家に帰って来ました。

目的が、その日常の、しなければいけないこと、しようと思うこと、を行う、
生の生活(せいかつ)です。

ただいま
2015.11.03 12:47
ただいま様へ
繰り返しですが、ここなどでお分かりになったこと、例えば、「環境にうながされ外向きに生活」としましょう。
そういう「考え」を(不変の固定的な実体ある「自分」として認めておいた)「自分」に応用しようとするとこれが面白くないのです。換言すると、「自分」を中心に持ち運んでいく修行、「考え」「見方」を先に立てて、「自分」を取り扱っていく修行です。これは「自分」対「自分」となり、「苦行」となるのです。御承知ですね。

「こちら」から、どうするというより、聞こうとしなくとも聞こえるという、「これが自分」以前の「はたらき」にまかせていく、「環境」「状況」にもよおされて生活されていく、「生活」という作用だけ。以前に申したように、「動詞」だけ。「主語」も「目的語」もなし。
すでにそうなのですが、「自分」で「自分」をモニターチェックしない、「六根の作用」がはたらいているそのままの「生活」です。
結果として。

…「分かったこと」はそれはそれとして、棚上げして、いきなりの「事実風呂」にザブンです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.11.09 18:30
ただいま
不識さん

>「自分」で「自分」をモニターチェックしない、「六根の作用」がはたらいているそのままの「生活」です。
結果として。


ブログの記事を読む前から、すでにあった、「環境」・・聞こえ、見れ、触れ・・
その「事実風呂」にザブン
ザブンという間にザブンしていた

意識は一つしか向かない から、方向を変えると、そこです。

そうだったのが、分かりました

この継続です

ただいま
2015.11.10 15:00
ただいま
不識さん

>そうだったのが、分かりました
この継続です

「分かった」は『六根の作用」がはたらいているそのままの「生活」』ではありません。「分かった」と思ったら、それはそれ、分かる前からあった、「生活」です。

ただいま
2015.11.11 11:15
ただいま
不識さん

それと

以前、「何もしない」と言いましたら、「何もしていないのではない」と
言われたことがありました。

自分が「何もしない」ではなく、結果として「何もしない」です。

ただいま
2015.11.11 11:18
ただいま様へ(11.10 15:00)
>方向を変える
ご承知のように、実際は「方向」もありません。「内」も「外」もないから。

>意識は一つしか向かない から

だから仮に「悟り」と呼ぶことがありうるんです。

>…が分かりましたこの継続です

十分ご承知でしょうが、「分かりました」ことを事実より先に掲げて、「自分」を取り扱って継続して行こうとすると面白くないです。事実に直にぶつかっていく、(実際は、事実にぶつかりっぱなしなんですけどね)ことですね。

ご承知ですから、「分かりました」をお忘れになって、
ただ、「その場その時」の実際ですね。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.11.16 21:38
ただいま様へ(11.11 11:15)
>「分かった」

ことも「六根の作用」です。
ただ、「外向き」用に使うことです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.11.16 21:44
ただいま様へ(11.11 11:18 )
>自分が「何もしない」ではなく、結果として「何もしない」です。

そういうことですね。
「何もしない」とは、「自分」を用いないことです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.11.16 21:45

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