「非認知療法」

「真実は、認知に属さず、認知しないことにも属さない」とあるとおりです。
認知・分別することで事実から引きはがされ「ふたつ」になってしまう。
「分かる」ことは「迷い」です。
「わからなさ」とは「あるがまま」です。
それは、(「見解」が出る以前の)事実生活に現成しています。
合掌低頭






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.10 2013 あるがまま・如如 comment28 trackback0

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みなちゃん
坐禅の際の目の前、実行は、どのようにするのですか。また、なにか意識することは、ありますか。
2013.11.12 23:19
みなちゃん
坐禅中、雑念が湧く時は、どのようにすればよろしいですか。不識様ご教示お願いします。
2013.11.12 23:28
とも
私は神経症の苦しみから来る、体の不調に長年悩んでおります。
頭のてっぺんからつま先まで痺れがあります。
リラックスしているときはまだ楽なのですが、緊張状態に入りますと、
全身がガチガチになります。
CTスキャン等の精密検査を受けたことも何度かありますが、
異常はまったくありません。

不識さんの言われていることを実践していると、
すごく気持ちが楽になることがあり、そんな時は体の不調は大分良くなる感覚がします。
(不調の感覚が完全に無くなることはありませんが)

また体の不調の感覚もそのまま味わっていますと、不思議と幸福な気持ちになることもよくあります。
(ただ長くは続きません)

不識様にお聞きしたいのですが、
神経症から来る体の不調の感覚も、心と同様に良し悪しをつけずにただ感じているということでよろしいでしょうか?
2013.11.14 16:36
みなちゃん様へ
ご質問ありがとうございます。

>坐禅の際の目の前、実行は、どのようにするのですか。また、なにか意識することは、ありますか。
>坐禅中、雑念が湧く時は、どのようにすればよろしいですか。


みなちゃん様はどうされているかお聞きしてもいいですか?
2013.11.15 17:23
とも様へ
ご質問ありがとうございます。

出先なのでまたあらためて書き込みいたします。
2013.11.15 17:26
みなちゃん
坐禅の時の様子ですが、見聞覚知すべて、このもの「身体」の動きであり、対する対象が無い状態であります。見ようとしなければ見る、聞こうとしなければ聞く。全て、このものの動きであります。このものの上に宇宙があります。
五感中心で心は湧くまま心に用事なし、認知なし、このようになっている事に気ずければと。全てが無くなる、無くなるとゆうことも無くなる。これでよろしいでしょうか。
2013.11.15 23:51
みなちゃん
認知なし、ではなく、認識なしでした。頭に浮かんだままに書いてしまい分かりにくくてすみませせん。
2013.11.16 21:12
みなちゃん様へ
>坐禅の時の様子ですが、見聞覚知すべて、このもの「身体」の動きであり、対する対象が無い状態であります。見ようとしなければ見る、聞こうとしなければ聞く。全て、このものの動きであります。
>五感中心で心は湧くまま心に用事なし、認識なし、このようになっている事に気ずければと。・・

「・・・このようになっている事に気ずければと」ということですが、・・・
「対象が無い状態であります。」なら、・・そうお気づきのはずですが・・・。


>全てが無くなる、無くなるとゆうことも無くなる。・・

「五感中心」という中心もなし、「用事する心」もなし(無眼耳鼻舌身意)です。

そのように、「とゆうことも無くなる。」とおっしゃるとおりです。



>このものの上に宇宙があります。

ですから、「一見四水」ということがあります。



>坐禅の際の目の前、実行は、どのようにするのですか。また、なにか意識することは、ありますか。
>坐禅中、雑念が湧く時は、どのようにすればよろしいですか。


すでに、ご自身でいわれるように、
「心(・意・識)は湧くまま」です。

「目の前、実行」は、眼でしたら、眼のはたらき・機能にまかせてあるとおりに行くということです。見えるまま見っぱなし。ですから、坐禅中は、半眼というように、眼を閉じないのです。

見たら見たものになる。聞いたら聞いたものになる。そのものになるなどと言われます。
坐でしたら、「坐」があったら、坐にならないのです。

坐に執することなく、目の前の状況に、もよおされ、いわゆる動中の工夫そのものになってください。
そうやって、「こちら」からの工夫が止むと、「むこう」から証してくれるのです。


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識


2013.11.17 17:42
とも様へ
>神経症・・CTスキャン等の精密検査・・異常はまったくありません。

わかりました。以下は、神経症としてコメントをさせていただきます。
つまり、一般の身体の不調のような客観的な障害に対するアプローチとは異なります。


>言われていることを実践していると、すごく気持ちが楽になることがあり、そんな時は体の不調は大分良くなる感覚がします。(不調の感覚が完全に無くなることはありませんが)

結果として、楽になることは構わないですが・・・
「楽」を求めると、「苦」になります。
おわかりのことと存じますが、再確認してください。


>体の不調の感覚もそのまま味わっていますと、不思議と幸福な気持ちになることもよくあります。 (ただ長くは続きません)

そうですね。よくあります。

これもそうですが、「気持ち」を主題にしてはいけません。
おわかりのことと存じますが、再確認してください。



>神経症から来る体の不調の感覚も、心と同様に良し悪しをつけずにただ感じているということでよろしいでしょうか?

そうですね。

状況に(たとえば生活上の用事)に動かされること=「良し悪しをつけずにただ感じて」いたということ(結果)ですね。




よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2013.11.17 17:48
みなちゃん
ご丁寧なコメントありがとうございます、また、コメントさせていただいてよろしいでしょうか。
2013.11.17 19:14
みなちゃん様へ
>また、コメントさせていただいてよろしいでしょうか

お役に立つのであればどうぞ。


・・・皆さんにもお聞きしていますが、みなちゃんさんは、三聖病院に入院通院されたのですか?・・・あるいは、禅の修行をされてらっしゃるのですか?

合掌低頭、不識
2013.11.17 19:31
みなちゃん
三聖病院には、入院通院は、しておりません。禅には、小説姿三四郎
を読んで興味をもちました。禅の本等を読みました。師には、ついておりません。井上義衍老子、原田雪渓老子、禅友に贈る書等を参考に修行のまねごとをしております。仕事がいそがしいので坐禅は、1日10分ぐらいしかできませんが、主に日常の動中の禅だけしております。ご教示頂きたいのですが、目を閉じて眠る時は妄想イメージが湧きますが、目の前実行は、身体このものの五感環境に動かされるまま、イメージの湧くままイメージをほおっておくでいいのですか。起きている時は、仕事や用事が目の前実行でわかりやすいですが、目を閉じじっとしている時は、イメージは、湧くままにして、環境に動かされるままにしていればよろしいですか。よろしくおねがいします。
2013.11.17 20:19
みなちゃん様へ
>井上義衍老子、原田雪渓老子、禅友に贈る書等を参考に修行のまねごとをしております。


井上義衍老師、原田雪渓老師は、正師です。
町野さんも間違いありません。
よいご縁です。


上記の老師をはじめ、このブログ(ここは神経症、三聖病院と縁のある方がこられると思いますが)には、どのように、出会いましたか?



>仕事がいそがしいので坐禅は、1日10分ぐらいしかできませんが、主に日常の動中の禅だけしております。


結構です。


>目を閉じて眠る時は妄想イメージが湧きますが、・・・


眠っている時、夢をみていることを気づいている事をいっているのですか?



>目を閉じじっとしている時は、イメージは、湧くままにして、環境に動かされるままにしていればよろしいですか。



いわゆる坐の時は、眼は(半眼に)開けて(五官を開放して)といわれておるとおりです。
そうでないと、釈尊の一見明星もなかったでしょう。



眼を閉じないとして・・・
他でも申したように、
説明としては、「イメージは、湧くままにして、環境に動かされるまま」で結構です。

しかし、
ご本人にしたら、
「イメージは、湧くままにして、環境に動かされるまま」が忘れられた時が、
イメージは、湧くままにして、環境に動かされるままという状態です。

「イメージは、湧くままにして、環境に動かされるまま」と自分で自分を眺め・観察している時は、面白くないです。


よろしくお願いします。

合掌低頭、不識

2013.11.17 21:22
みなちゃん
目を閉じて眠りに入るまでの間にイメージ湧くという状態のことです。生活をしている時に、どんな言葉がこのもの身体に響いてきても唯、音として一如に響く。音も無い有るとゆうことも無い。他の五感開放も頭に持っていって解釈、分別,是非を思わない。思ったら思ったままほおっておく。浜松の老師のブログに、貴方たちも唯、話が聞けるようになったらいいね。と書いてありました。無いとゆうことも有るとゆうことも無いとは、音が鳴った後にあっと音が鳴ったと認識が無い頭に持っていかないこと、持っていったら持っていったままほおっておく。そのまま脱落とゆうことですか。事実は、捕まえられない。捕まえたと錯覚するのは、事実の記憶だけ。この錯覚が、無明ですか。
2013.11.17 22:30
とも
不識様

ご返信ありがとうございました。

眼前生活頑張ってまいります。
2013.11.17 22:48
みなちゃん
浜松の老師のブログやそのまま、あるがままのブログで知りました。禅の理がわかったようなわからないような神経症のような引っ付かかりのある状態です。よければ思った疑問のご教示いただければ助かります。よろしくお願いします。
2013.11.21 00:22
みなちゃん様(11.17)へ
>無いとゆうことも有るとゆうことも無いとは、音が鳴った後にあっと音が鳴ったと認識が無い頭に持っていかないこと、持っていったら持っていったままほおっておく。そのまま脱落とゆうことですか。

「認識が無い頭に持っていかないこと、持っていったら・・」は、心意識内の作業になるでしょう。

「心の用事」なし。
「用事する心」がないんです。

「無いとゆうことも有るとゆうことも無い」とは、、「そのまま脱落」です。
「無いとゆうことも有るとゆうことも」有るも「そのまま脱落」です。


>事実は、捕まえられない。捕まえたと錯覚するのは、事実の記憶だけ。この錯覚が、無明ですか。

そうです。
なぜ「捕まえられない」ですか?
お聞きしていいですか?


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識


2013.11.23 19:53
みなちゃん様(11.23)へ
>禅の理がわかったようなわからないような神経症のような引っ付かかりのある状態です。

引っ付かかりがあるというのは、引っ付かかりがあるということですから、
神経症ではないことはおわかりでしょう。

神経症となるためには
引っ付かかりがある事を病気と見なし
その「引っ付かかりがある自分」概念化してその「自分」を実体として認め、相手にして、治そうと工夫することです。



>よければ思った疑問のご教示いただければ助かります。

浜松で禅修行ブログ、禅友に贈るブログでは質問されないんですか?
されたならどんな回答を得ましたか?

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2013.11.23 19:57
とも様へ
ご返信ありがとうございました。
よろしくお願いします。


合掌低頭、不識
2013.11.23 19:59
みなちゃん
コメント有難うございます。なぜ、捕まえられないか。事実は、このものの働きで一如にして対象にならず、認識できない、主体と客体がひとつになっている状態だからです。主体も客体もありませんが。本当に聞く、本当に見るとは、聞いたもの、見たものが、完全に無くなった様子、自分とものとが、主体と客体とが、完全に距離をなくした状態を、本当に見た、聞いたといいます。これを、空といいます。心に用事なしで、みんな意識以前の生活をしています。これに、私が、介在して混乱してしまうのです。
このブログにしかコメントしておりません。不識様よろしくおねがいします。

2013.11.24 19:21
みなちゃん様(11.24)へ
>事実は、このものの働きで一如にして対象にならず、認識できない・・・
>私が、介在して混乱してしまう・・・


「事実は、このものの働きで一如にして対象にならず、認識できない・・」なら、
「私が、介在して混乱してしまう・・・」ことがないはずです。
・・・以前も同様の投稿をいただきました。

理の上でよく勉強されていらっしゃいます。
後は実証です。


>このブログにしかコメントしておりません。


このブログは、「神経症」で苦悩し宇佐療法を体験された方に向けて立ちあげました。
「神経症」的苦悩でない、みなちゃん様はこのブログに何を求めていらっしゃるか、お聞きしてよろしいですか?


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2013.11.24 20:02
みなちゃん
禅修行の理について、自分の間違い等の指摘、ご教示をお願いしたいと思ってコメントをさせてもらっていました。神経症で苦悩宇佐療法を体験された方にむけてのものだったんですね。ご迷惑をおかけしました。でも不識様のご教示は、大変わかりやすくて助かりました。これからもブログは、拝見させていただきます。不識様頑張ってください。
2013.11.24 22:11
みなちゃん様(11.24 22:11 )へ
>神経症で苦悩宇佐療法を体験された方にむけてのものだったんですね。ご迷惑をおかけしました・・


迷惑してません。

「何を求めていらっしゃるんですか」とお聞きしたのは、そのまま受け取ってください。何をおっしゃりたいのかわからんかったんです。

遠回りに排除しようとしたんではないのです。


どうぞ、こちらでお役に立つようでしたら、またどうぞ。
合掌低頭、不識
2013.11.30 21:43
-
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013.12.06 08:05
rurumik様へ(12.6)
>コメントで、客観的な障害と、アプローチが異なる、と書かれていますが、腰痛の場合はどうなりますか?

いわゆる腰痛は客観的障害、器質的障害、体の部品の故障です。
故障を治すのがアプローチ。
それに対して神経症は、体という道具立ては故障がないが、使い方が違っているんです。
故障がないところに治そう・どうにかしようとすることで動作が緩慢になったり、フリーズしてしまうことで生活が進まなくなるんです。
生活が進めば、それが回復です。


>不調の日は、精神状態が大きく左右されてしまいます。

精神状態が大きく左右されたら、そのまま。
左右されているのが悪いとしないでいいんです。
どうこうしようとするから問題になる。

天気が雨でも嵐でも晴れでも、手を付けない、手をつけようがないと同様です。


>どちらにしても、自分の方に向かないこと、一歩一歩前向くしかないですかねえ…。

向くべき「自分」が、実際はないのです。


>もうどうしたらいいかわからなくなって・・・

この質問が出ることはどういうことですか?
・・・内のことをどうこうしようとしてるんですよ。

それは、心の状態に良し悪しつけて問題にしているから。
どうするかって、・・・内の事はどうもしない。

そういう質問出たら出たで良いから、
その質問出っぱなしで、進んでください。

どうするかって・・・
腹がへったら飯を食う、ホコリたまったら掃除する。・・・いつも申している日常生活です。
目の前に教えてもらうんです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識


2013.12.08 18:25
rurumik
不識様

>左右されているのが悪いとしないでいいんです。

左右されることが悪いとしていますよね。左右されることが、もっと悪いことを引き起こしてしまう、と、心配して…

>天気が雨でも嵐でも晴れでも・・・

天気に…、手をつけようがないことに、文句言ってるんですよね…。

>どうするかって・・・内の事はどうもしない。

内の事はどうもしなくていいんですね。

お忙しい中、すみませんでした。
ありがとうございました。
2013.12.08 19:54
rurumik
不識様

何度もすみません。
「内の事はどうもしない」と言ってもらってから、
ああ、内の事はどうもしなくていいんだ…と、なんだかホッとしました。
ありがとうございました。
2013.12.08 21:51
rurumik 様へ(12.08 21:51)

>「内の事はどうもしない」と言ってもらってから、ああ、内の事はどうもしなくていいんだ…と、なんだかホッとしました。

それはよかった。

以前やっていたように、日常の事に、努力すればよいんです。
ですから、このブログで言う「内だ外だ」などという屁理屈なんていらんのです。


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2013.12.08 22:33

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