「物語」

「悩みごと」は「物語」を伴う。
主役の「自分」がない時、「物語」は成り立たない。
「これが自分」を描かない、決めない、説明しない・「自分」観察が止んだ状態で
生活が始まるとたん離れてしまうのです。
合掌低頭




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.19 2016 あるがまま・如如 comment19 trackback0

Comment

rurumik
いつも読ませて頂いています。ありがとうございます。
「物語」ですか。。先日、五木寛之さんと釈徹宗さんの対談本を読んだ(まだパラパラとだけで)のですが、その中で「物語」という言葉が出て来て、自分の中でひっかかっていました。ちょっと前に、公民館で、回想法の講座を受けたんですが、その時も考えさせられたことがありました。また本を詳しく読んだら、質問させてもらってもいいですか?(ブログに関係ないことかもしれないので、ダメだったらすみません。)
2016.09.19 09:09
スーパー健康人
「無」の状態…神経症は成り立たない?宇佐先生流なら?と言う事ですか?
2016.09.20 23:25
rurumik
こんばんは。「物語」について、ですが、その後、釈徹宗さんの別の本も読みました。それで、質問したかったのは、「物語」で究極のところ人は救われるんでしょうか、でした。でも、それを質問するのは不遜なような気がして来ました。私は「物語」では救われないだろうけど、人のことはわからない。人のことはどうでもいい。(と言ったら語弊があるでしょうか) なので、質問はもういいです。すみませんでした。回想法やナラティブセラピーも、私が、一般的な心理療法について、比べたり考えたりしても仕様がないので、考えるのはやめます。

2016.09.22 22:08
rurumik様へ
>回想法の講座

なぜ興味を持ったのですか?
よろしければお教えください。
不識
2016.09.26 00:05
スーパー健康人様へ
自分観察しない時、観察する「自分」を認めない時、「神経症」は成り立たないのです。そもそも、成り立つか成り立たないかと問われる「神経症」という実体がないのです。
よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.09.26 00:09
rurumik様へ-2
>回想法、ナラティヴセラピー…

そういうのもあってよいのですが、
宇佐先生と縁のある方には、おすすめしません。

余談ですが、ナラティヴセラピーに影響受けた森田療法のある精神科の先生が森田学会の会長になって以来、世界に類を見ない森田原法(現在全世界に伝わっている森田療法でない、もともとの森田療法)の「不問」という特徴は、まことに残念ながら削除されてしまいました。
この森田原法に筆を加えた宇佐療法のみ、少なくとも世界に300以上あると言われる療法中唯一、(「このもの」を「自分」と認識し)自分観察させない療法です。

ご承知のとおりですが、他の方の参照として再び書き込みました。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.09.26 00:15
rurumik
お返事ありがとうございました。

>回想法の講座

回想法の講座を受けてみようと思ったのは、今、訪問介護ヘルパーの仕事をしているんですが、利用者さんで、認知症の方とお話をさせて頂く時間があるのですが、私は、話題を振ったり、楽しいお話をして、とかができる、あまり話上手でないので、(聞く分は一生懸命聞いているのですが。)それで、その時間、利用者さんにとって、もっといい時間を過ごしてもらえる、何かその勉強になれば。。と思ったからでした。

受けた感想は、
(回想法の講座は、1日3時間くらいだけの受講でしたので、全然十分わかってないのですが。。)
回想法で、認知症の方に、その時間、楽しい時間を過ごしてもらえたら、とてもいいな、と思いました。
講師の先生が出して下さった事例で、認知症でない方(多分)に対して、何回かお話を聞かせて頂いて、その方が辛かった過去の人生を受け入れる、負から正への再構築をされたお話があったので、ナラティブセラピーって結局どうなんだろう。。とちょっと思いを馳せました。。
でも、いいですよね!お年寄りのその方が楽になり笑顔になるんですから。。
2016.09.26 17:18
rurumik様へ
>訪問介護ヘルパーの仕事をしているんですが

そうですか、もうすっかりですね。素晴らしい。

>利用者さんにとって、もっといい時間を過ごしてもらえる、何かその勉強になれば。。と

「自分」になさっていた工夫がやむと、「外」の工夫・実生活上の工夫しかなくなるという良い実例を示してくださった。
ありがとうございました。

>その方が辛かった過去の人生を受け入れる、負から正への再構築をされたお話があったので、ナラティブセラピーって結局どうなんだろう。。と

「負から正への再構築」ということは、認知の書き換えという作業です。
それで、満足いく方はそれでもいいのです。
ところが、満足いかない方、救われない方は、それでは済まないわけです。

>その方が楽になり笑顔になるんですから

そうですね。

ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2016.10.03 00:07
rurumik様( 9.22 22:08 )へ
>釈徹宗さん

彼岸寺ネットhttp://www.higan.net/satori/2016/09/shaku1.html
に彼のインタビューがあり拝読しました。

>「私」という存在も、この世も、あの世も、愛も宗教も、すべて物語であり、虚構であり

というところは良いのですが・・・
他に、どうなんだろうかというところがあり、抜き出しましたのでご参照ください。

>縁をたぐった末に、どうしても自分に合わないということがわかったら、そこでまた別の縁をたぐればいいわけです
>仏教という宗教は、私がさとりをひらいて仏になる(仏←私)という方向です。これがメインのストーリーです
>親鸞は、「阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」と徹底的に自覚していたのです。ほかの救済ストーリーじゃだめなんです
>物語と出会う前に戻れない
>わき上がる自分の都合を見つめ続け、それを抱えたまま如来におまかせしていく。

ご意見お聞かせください。よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.10.03 01:03
rurumik
お返事、いつもありがとうございます
インタビュー全文を拝読しました。
私の意見を言うんですか!?

>縁をたぐった末に、どうしても自分に合わないということがわかったら、そこでまた別の縁をたぐればいいわけです

「自分に合わない」ということがどういう内容のことを言っているのかわからないのですが、私も仏教を求め始めてから、仏教のいくつか道を求めました。そして結局「ダメだ、この道では救われない」と感じて、別の縁をたぐって、それで今、真実だと思える道にたどり着きました。回り道をしたのかもしれないけど、結局あの道この道があったから、真実の道に出会えるご縁を頂けたんだろう、と思っています。

>仏教という宗教は、私がさとりをひらいて仏になる(仏←私)という方向です。これがメインのストーリーです

釈さんが仏教についておっしゃっていることは、これまで私が教えてもらったこと、ほんとの教えだ、と思えたことと違っているので。。

>親鸞は、「阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」と徹底的に自覚していたのです。ほかの救済ストーリーじゃだめなんです

親鸞さんについても、浄土真宗についても詳しいこと知りません。
親鸞聖人は、救済ストーリーに救われたんですか?
自分の印象的には、どうやっても救われない、と徹底的に自覚されたんじゃないかと思いました。

>物語と出会う前に戻れない

戻れないと言えば戻れないし、
戻るとか戻らないとかそんなのないんじゃないかという気もしました。

>わき上がる自分の都合を見つめ続け、それを抱えたまま如来におまかせしていく。

自分を見つめない、と教えて頂いているし。。
「それを抱えたまま如来におまかせしていく」という部分があまりイメージできません。
浄土真宗で私がイメージできるのは、全面降伏、頭を下げる、ことです。

浅はかなことばかり書いてしまったかもしれませんが、お許し下さい。
2016.10.04 23:34
rurumik様へ
>>縁をたぐった末に、どうしても自分に合わないということがわかったら、
>「自分に合わない」ということがどういう内容のことを言っているのかわからない

「自分」の都合に合わせて、修行したら面白くない。
「自分」をもちはこんで「自分」の方から決着しようとしたら面白くないのです。

>>仏教という宗教は、私がさとりをひらいて仏になる(仏←私)という方向です。これがメインのストーリー
>釈さんが仏教についておっしゃっていることは、これまで私が教えてもらったこと、ほんとの教えだ、と思えたことと違っている

そうですね。
「私がさとりをひらいて仏になる(仏←私)という方向」ではないです。
「ストーリー」がなく、いきなりのこのとおりです。

>>「阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」と徹底的に自覚
>どうやっても救われない、と徹底的に自覚

そうですね。
「阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」という「私」はないと徹底的に自覚したんです。

>>物語と出会う前に戻れない
>戻るとか戻らないとかそんなのないんじゃないか

そうですね。
「物語」以前、すでにこのとおりです。

>>わき上がる自分の都合を見つめ続け、それを抱えたまま如来におまかせしていく。
>自分を見つめない

「自分を見つめない」そのとおりです。

ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2016.10.10 00:13
スーパー健康人
コメントありがとうございます!
2016.10.15 18:36
スーパー健康人様
ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2016.10.17 00:11
三省っ子
>阿弥陀の救いでなければ、私は決して救われない」という「私」はないと徹底的に自覚したんです。

突然すみません。

親鸞の言葉を考えたことがあったのですが、何かつかめそうです。

私がなんとかしようとしているからいけない。自然に任せる。でいいでしょうか?


2016.10.18 20:56
三省っ子様へ
三聖病院入院経験者ですか。

>なにかつかめそう

つかんだら、離すということです。
もし、悟して、つかんで離さないと、「悟りという病」になります。
同様に、
「治った」というのは、治ってません。
いわゆる「本治り」は、「治ってません」「治った」がなくなることです。

実は、
この「身心」はすでに、つかんでるのです。
ただ、
「私の見解」だけが「概念の世界」フォルダ内で「分かった」「分からない」「治った」「治らない」を往ったり来たりしておるのです。

「私の見解」を離れ、事実生活に徹する。
そういう実際それだけです。
事実生活に徹する時、「治そうとする私」「悟ろうとする私」が立ち消えする時節があるのです。
「修養・修行」の眼目はそこです。


>まかせるでよいでしょうか。

「まかせるでよいのだという私」が、もし残ると面白くないです。
「私が私になんとかしようとしない」としようとしてはいけませんね。
「私」が「私」に余計な「なんとかしようと」なしにあれば、すでに、まかせてあるんですね。
すでにそうなんだけれど、「修せざれば現われず」です。
それは、
いわゆる「外向き」の時、おのずと、現前します。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.10.24 00:06
三省っ子
ありがとうございました。



>三聖病院入院経験者ですか。

入院はしていません。
2016.10.25 20:46
三省会KY
このブログは管理人さんが元はといえば、三聖病院退院者の為に立ち上げたわけ。それ以外の人が書き込むさいは、少なくとも三聖病院で修養体験あるか?ないか?、神経症治療目指してるのか?ぐらいはマナーとしてかくべきであらへんの?
2016.10.27 00:01
三省っ子様へ
ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2016.10.30 22:06
三省会KY様へ
そのようにしていただけると双方よいでしょうね。ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2016.10.30 22:14

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