「くらまし」

今ここによく生きる姿を示された「気づき」に対して「言葉のないあるがまま」はただぶっつけにこのとおりの姿である。それは「くらまし」と言ってもいいだろう。
つまり、自分の分別や二元的な見方でなく、概念のない世界に姿を消すことである。
何でもない世界に住むと言ってもよかろうか。(宇佐晋一)

事実に生活することです。
合掌低頭






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.12 2016 あるがまま・如如 comment30 trackback0

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2016.12.12 17:29
コメントしました。
よろしくお願いします。
2016.12.12 17:29
三省っ子
今ここに

今(立っている、食べている、など)が全てなのに、頭の中の考えの世界が展開していた。

今は、半分あるか?ないか?もっとあるかもしれないが、
聞いているようで聞いてない、見ているようで見ていない。

今に自分はない。それが事実であり、何でもないもの。

2016.12.13 18:36
三省っ子
言い換えれば

今に自分はいない。

事実に自分はいない。

なにでもないもの、そこに自分はいない。

概念のない世界にくらましている。

でも、こうして観察している自分がいるのがくやしい。
2016.12.13 20:09
-
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2016.12.15 09:29
コメントしました。
お忙しいところすみません。
よろしくお願いします。
2016.12.15 09:31
(12.12 17:29 )様へ

>何か教えてください。

「教え」は「考え」で分かったことにすぎず、いくら分かっても、「分かった」「分からない」の「二元世界」・「考えの世界」から一歩も出られない(今の事実から分離される)ことを再確認ください。

>仏教的な何か

「悟り」です。

>今何もしなくていいんだろうか

「生活」自体即修行ですからひたすら精進(「自分」を省みず)です。

>理不尽

「私たち」の観点でそう見えるだけで、間違いのない「法のはたらき」です。

>死ぬというそんなに悲しくて辛い・・・ひどすぎると思って

つまり、この「私」の死が「問題」ということでしょう。
このまま生き続けて永遠に死ねないとしたら、それはそれでどうですか?
いずれにしても、生きておる「私」死ぬ「私」のあることが、「問題」を作っておるんでしょう。
ひたすら生きておる時には生きておると気づかないですね。死んでいる時も死んでおると気づかない。事実とはそういうことです。
ところが、それを概念化して、「考え」の世界で苦悩するんです。繰り返しますが、知らない世界に、知らないものが知らずに生まれたのです。「生」という「概念」を知らない時には、「問題」「苦悩」が成り立たないのですね。知らない世界に、知らないものが知らずに生まれたこのもの自身がこのものを知らないんです。
このものと仮にいいますが、周りの環境と一如に活動していたんです。
ものごこころついて、いつしか、このものに名前がついてから、このものを「私」だと思い込むようになり、このものは、生きていることも死ぬことも知らなかったのに、生きてる「私」死ぬ「私」が問題になったんです。その「私」とは、単なる看板・屋号・名札(実体ない虚構)にすぎません。そして、「生」「死」も同様に、「概念」にほかならないのです。
それには、「これが私だ」の「私」を忘れきること(事実の中で殺されること)が必要になる。
「自忘」とは、「私」を認めた上で「私」を滅するのでなくて(「私」の方から証明するのでなくて)、ひたすら、生活する上で、もともと「私」はなかったのだと気付くことです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.12.19 00:27
三省っ子様へ
>今に自分はいない。事実に自分はいない。なにでもないもの、そこに自分はいない。

「いない」というだけ、残っておるんです。

>観察してる自分がいる

それはそれでけっこうです。さらに、後追いしないことです。

出た時は出たで、そのまま相手しないでください。
相手せず、手つかずのまま、「外向き」生活です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.12.19 00:36
(12.15 09:29 )様へ
「六根の機能を開放して」とは、機能のまま、手つかず、受け身でということですね。
単に音として聞こえる時、それで脱落していたことに気づけます。
分かる時は分からないではいられませんから、それも六根の機能のひとつです。分かったら分かったことを大事に持っていないで放すということです。(雨の音だと分かっても)それにとどまっていないで聞きっぱなしですからその後いろんな音が入ってこれるように耳の機能はできておるんですね。
入院生活の眼目である事実生活は、換言すれば「分からなさ」ですね。それは「分かる」「分からない」に属さない、そういう「二元的概念」化の出る前の手つかずの状態・「今」・「悟」
ということです。
「分かる」ということは、今の事実から分け隔てられるということです。「分かったこと」を認め、それを理解した「自分」が立ちあがり二つになります。今の事実はそれ以前の概念化以前認識以前を指し示されています。認識以前ですので「分からない」のです。「分かるもの」と「分かられるもの」がないので認識できないのです。
よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.12.19 00:40
-
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2016.12.19 17:44
三省っ子
ありがとうございます。

少し焦っていました。
2016.12.22 21:31
(12.19 17:44)様へ
>頭では十分よくわかるんですが、頭ではどうやってもダメ

「分かる世界」も「悩む世界」も同じ「概念世界」なのです。
掲示板を遊び場にしてる方を追い出すのはそのためです。
しかしながら、その方たちには、それが分からないようですが。
繰り返しですが、分かったことは、過去の情報化です。今の事実そのものは「認識される・認識する」以前ですから、認識できないのです。分かったことを標準にすると、そこから「脱線」です。

>どんな思いや不安が湧いて来ても、ひたすら精進以外ない

「湧いて来ても」⇒「湧いて来るまま」です。
二つに相対するのでないのです。
「どんな思いや不安」自体、「法のはたらき」(「私」以前の「はたらき」)です。
それらだけでも、気づくことができます。

>同じようなことを何度も聞いてしまってすみません

お役に立つか分かりませんが、それでよければ、どうぞ御遠慮なさらずに。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.12.25 23:04
三省っ子様へ
ありがとうございました。


「少し焦っていました」というように、「自分」を認め「自分」観察して「自分の気持ち」を概念化・「自分」説明は不要です。
それが結果として、やめられれば、良いだけです。
それは、おのずと、
いろいろな「気持ち」が出る、そのまま相手せず、手つかずのまま、「外向き」生活の最中、おのずと、やむのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2016.12.25 23:13
ありがとうございました。
>分かったことを標準にすると、そこから「脱線」です。

はい。よく心に刻みます。

>「湧いて来るまま」です。

はい。

>遠慮

ありがとうございます。よろしくお願いします。
2016.12.27 08:31
(12.27 08:31)様へ
>「頭」では十分よくわかるんですが、「頭」ではどうやってもダメ 。
>「分かったこと」を「標準」にすると、そこから「脱線」です
>よく「心」に刻みます。


「刻みます」と表現されて、その揚げ足を取るつもりはありませんが、その必要はありませんね。十分ご承知ですが、この「療法という名のお膳立て」の趣旨は「分からなさ」にあるのです。
単に、「分かったこと」を離れるだけですね。
つまり、これから離そうとするのではなく、「分かったこと」を「自分」に用いない。「自分」を用いる(「考え」を用いない・「考え」の世界で努力しない)以前の、構えなくとも(良し悪しなくそのまま)音が聞こえる(他の「六根のはたらき」も同じ)ように事実から脱線しようのないまま。手のつけようがなく、そのようにできておるままです。これから「考え」を用いて離れようとするのでなくて、離れておるこのままです。
何だ、何もせんのかとおっしゃるかもしれません。そうなんです。余計なことをしてみずから苦しめておったのが止まるのです。つまり、「何もしないこのままでいいんだ」という「分かったこと」「考え」を「自分」に使うことでみずから苦しむことが止んで事実生活です。
釈尊も、「考え」を事実より先に立てて苦行されたのです。「考え」によって、ない「自分」を「ある」と錯覚してその「自分」を目的に葛藤された。当時の師匠から修行が済んだと言われたのですが、釈尊にとっては、何も「問題」が解決していなかった(解決しようとしていた「問題」が「あった」)のです。つまり、「考え」「分かる分からない」の世界から一歩も出ていない(事実から離れていた)ことに気づいたのです。
合掌低頭、不識
2016.12.31 17:15
ありがとうございました。
>「分からなさ」にある
>単に「分かったこと」を離れるだけ
>余計なことしてをしてみずから苦しめておったのが止まるのです。

ちょうど、、「修行」とか「自忘」とかを求めてしまい、余計なことして苦しんでいたところです。
でも正直もう何が何だかわかりません。でもいいです。

いつもありがとうございます。
2017.01.01 09:09
(01.01 09:09 )様へ
分かりました。

合掌低頭、不識
2017.01.01 22:40
三省っ子
ありがとうございました。

2017.01.02 10:27
(01.01 09:09 )様へ-2
どうも「分かろう」とばかりされているのかもしれません。・・・もし、そうなら・・・、
よろしければ、以下参照してください。そして、お忘れになっていただきたいと存じます。

>「修行」とか「自忘」とかを求めてしまい、余計なことして苦しんでいたところです。でも正直もう何が何だかわかりません。

「自忘」「悟」を「目的」を持ってはいかん「坐りさえすればそれで良いんだに胡坐をかいている」師家が多いのですが、「目的」を持っていいのです。ただ、「修行」の時は「修行」「目的」も忘れるのです。
「何が何だかわかりません」と分かっていらっしゃいますが、分からないという状態の時は分からないという状態のまま、分かるという状態の時は分かるという状態のまま、「分かる分からないという媒介」を通してみた「事実という名の考え」・概念に置き換えられた「事実という名の考え」から離れた、直の、ナマの、いきなりの事実に生活することが大事ということです。

>何が何だかわかりません。でもいいです。

「分かる分からない」に関係なく、事実に生活するということで、おっしゃるように、けっこうです。
メカが分からなくとも車を運転して目的地に行け、それで間に合っていると同様です。

「分かること」が「目的」ではないのですね。
「言葉のない精神生活」とあるように「言葉」「私の見解」が足される前の、分別二元加工される前の素材そのままの事実に生活することが大事です。

>でも正直もう何が何だかわかりません。

その時はそうなんですね。それで、それ自体もはたらきそのものですから、その時それ以外求められるものはありません。
頭から尻尾まで捨てるところ無いという表現がありますように、一つ一つ「脱落」です。

繰り返しですが、分からんも分かっても関係ない。単に、「私の見解」が足される前の、加工される前の素材そのままの事実に生活することが大事です。
結果として、「分別心」が上乗せされる前の、「私印のコメント」がされる前の、「私」が虚構でありそういう中心がないまま、「因」と「縁」でいろんなことが(六根上)現れたり消えたりしている「法・はたらき」に「証」されるのです。

「因」「縁」がそれぞれ違うため、「でも正直もう何が何だかわかりません」(「私の見解」が足される前の六根中「意」のはたらき)に「証」されることもあり、「お仕事上の活動」に「証」されることもあり、「焼きあがったケーキの香り」に「証」されることもあり、「花の色」に「証」されることもあり、「タンスの角に足の小指ぶつけた痛さ」に「証」されることもあり、「家族のただいまの声」に「証」されることもあります。

直の、ナマの、いきなりの事実に生活するところの「そのままの事実」というのが、どうもピンとこないのかもしれません。
それは、「分かる分からない」以前の様子、こういうとさらに難しく聞えますが、それも無理ない事です。
「分からなさが趣旨ですよ」と「分かる形」の「言葉」「文法」を使って伝えていますので、何やら混乱しやすいのです。さらに、「メディア」、「教育現場」などで行われていることは「入院体験の趣旨」とは真逆ですので。・・・
そのままの事実は概念で説明はできるんですが、説明しきれないところをあえて「そのままの事実」と呼ぶのは、たとえて言えば、目隠しされてどこか連れてこられて、いきなり、目隠しが外され、眼に映った様子のようなもんです。「あれ、ここはどこ?」という「考え」が出てくる直前の「眼に映った色形、感じ、匂い」含めた、直の、言葉に置き換える前の「消息」です。
先生の講話で言いますと、机上の「マイク」を指して、「これです。マイクでないものが見えますか。」という例の話です。「そのマイクという名称・意味・使い方説明以前の眼に映じられたままが見えますか。それに、本来そのままに、あるんですよ。それが、生き生きした、生まれたてのあり方ですよ。」(先生は「全治」という言葉による誤解を避けて)「それが真実に生きるすがたですよ。」)と表現されていますね。

繰り返しますが、用事があるのは、「抽象的論理的に説明された答え」でない。「答え」が出ないまま、直の、ナマの、いきなりの、事実に生活する実際の方です。

さて、「言葉」「考え」をナマの実際と錯覚している方にあえて言葉を使っていくら言っても逆にさらに「言葉」「考え」の世界に入り込んでいくことがあります。そういう時仕方ないので、「私のものの見方」「解釈」を文字どおり「解脱」してもらうので、花をつまんで落してみせたり、せっかく弟子入りしに来たところ追い返して門に足を挟んでへし折ってみせたり、怒鳴ってみたり、海につれってて船から落としてみたり、質問に来たところいきなりぶん殴ってみせたりといった、文字通り「訳の分からん」ような「方便」を借りて、実際に目覚めさせていただくこともあるのです。

くどいですが、答えが分かる分からないの「答え」に用事があるんじゃない、以上の冗長な屁理屈お忘れになっていただいて、・・・「実際の生活ですよというお題目」があるからじゃない、誰に教わったのでもない・・・実際の生活です。

よろしくお願いします。合掌低頭、不識
2017.01.02 23:32
三省っ子様へ
合掌低頭、不識
2017.01.02 23:33
-
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2017.01.03 11:37
「くらまし」にコメントしました。
よろしくお願いします。
2017.01.03 11:39
(01.03 11:37 )様へ
文字化けがありました。以下の個所、よろしければ再送信いただけますか?

>日常のことにしたって、何でもすぐしんどくなってしまい、それほどは一生懸命できな�
�ぜ��法⊆�困覆鵑道爐未泙任忙笋頬�譴覆い茵��箸覆辰董��宇佐先生からは、あえて座禅をしなくていいと・・・

よろしくお願いします。 不識
2017.01.03 20:01
-
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2017.01.03 20:54
再送信しました。
文字化け、ご迷惑をおかけしてすみませんでした。
2017.01.03 20:56
(01.03 11:37 )様へ
再送信ありがとうございました。
>「何もしないのだけど、ただ座っているだけじゃダメで、それでは犬や猫と同じ」という

ちなみに、よろしければその話を詳しくきかせていただけますか。
合掌低頭、不識
2017.01.04 23:04
-
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2017.01.05 10:50
コメントしました。
よろしくお願い致します。
2017.01.05 10:51
(01.05 10:50 )様へ
>「ただ座っているだけじゃダメ」

ご承知でしょうが、「ただ」なく「坐っているだけ」なく、ただ坐るだけは、けっこうです。
「ダメの理由」があるとしたら、「ただ」「あるがまま」「坐っているだけ(でいいんだ)」という「考え」とともに、「坐っているだけ(でいいんだ)」という「自分」を立ち上げ、その「自分」に用いて「自分」を持ち運ぼうとしたら面白くないからです。
つまり、「自分」をあるとして、その「自分」を目的にしないことです。「自分」の心境がこうなるああなるを「目的」にしないことです。「坐」に集中できたのかできなかったのかなと、教わったとおり、うまく坐れてるかなと、いや違うかなと当てつ比べつして「自分」の様子を観察・評価しないことです。

三聖病院では、週1回でしたか、「坐る作業」というのが設けられていましたが、そういう「外」向き作業ですね。ご承知のように「外」も「内」もありませんが、「自分」作業ばかりの方に合わせて「自分」以外ということで「外」と言うんですね。言い換えれば、「このもの」を「自分」として認識、「自分」観察、「自分」概念化、「自分」対「自分」の作業、「自分」に用事することから結果として離れてもらうことです。「考え」の上で二つに分別された「自分」が「一つ」になる、「自分」が「自分」になるということです。「自分」が「自分」のままであると「自分」がない。「一つ」が「一つ」をみることができないのです。「自分」のままというのはここでいう「不問」、もともと問うべき「自分」はなかったのです。

用事する「自分」がない時、「自分」以外に用事するしかあり様がありません。用事すると言っても、「自分」が用事するんじゃない、勝手に、すでに活動していることの承当です。活動してもらうまま三昧です。
釈尊が「自分対自分」6年やってもしようがなかった後と同様です。「自分」を立ち上げ「自分」中心に「自分」が分かろう知ろう決めようということが止んだのです。そういう「考え方」が先行したのが止んだのです。「考え」以前の今・事実(壁がこうある、音がする、香がこうある、痛い、「こんなに努力して何になるんだ」)そのものになった。すでに、そのものであったんです。

「入院日記」では、「見たこと・したこと」だけ記入で、「自分・気持・思い・見方」説明なしとされていましたが、「坐」中は、見たら見っぱなし、聞いたら聞きっぱなしです。知ろう分かろう決めようとすることから離れて、「心」は「心」の勝手に任せ、「坐蒲」の上にあるという「活動・はたらき」に無責任に丸投げです。

>そのまま聞くとは、文字としてしか聞こえない場合があっていい

以前申したとおりです。
(言うまでもなく、社会生活上のやりとりではそれだけでは困ることもありますね。)

>私は正しい方向で聞くということをしてるんだろうか

以前申したとおりです。
文字・音として聞えた・見えた場合も意味が分かった場合も「私は正しい方向で聞くということをしてるんだろうか」もそれ自体です。

>それじゃあ、修行なんて考えていない、ひっかからない普通の人たちが、やっていることとなんら変わりないんじゃないか。

以前にも申したとおりです。
ひっかからない普通の場合、それ以上求めませんし、「修行」、「菩提心」もないでしょう。
「やっていることとなんら変わりない」と、そのとおり、特別なことではありません。
「自分」が「自分」をリメイクしようとして観察注文評価して「二つ」にならず、「自分」が「自分」に収まればよい、つまり、「外」向き活動だけです。特別なことではない「平常心是道」と言われるように「日常生活」です。

>私は、そのままにしようとすると

お気づきと存じますが、、「そのまま」という「考え」を先に持ってきて「自分」を取り扱うことになりますね。「そのままという考え」と事実そのままの違いが分からない、現在広まっている「森田療法」・「森田理論学習」に基づいた「療法」と同様です。

そのままにしようとする「私」を認め立ち上げて、その「自分」中心に「自分」の方から行くとどこまで行っても「自分」対「自分」の「戦い」になりうまくいきません。「そのままという考え」の前が、実はすでにそうだった(事実そのままだった)ということです。繰り返しですが、実際は京都にいるのに京都はどこだと歩き出すから外れてしまうようなものです。

>あーもう嫌だな、修行なんて。

ご承知のように、「あーもう嫌だな、修行なんて」のまま。
現われて消えるところ、相手して文字起こしして、そのことで、また、再生して、ストレス的なものを本物と思って相手にして、それを解消しなくてはならないという次々に手間のかかる作業は、労多くて功なしです。
繰り返しますが、「心に用事」なし。

>日常の、外の生活だけ一生懸命してる修行の方が私にはいい。

他の習い事トレーニングは別として、仏道修行の場合「私にはいい」という「私」の都合を取捨することで「私」が「私」によって、結果苦しむのですね。
その「これが私だ」の「私」は本当なのかだろうか、祖師方が言われるように、本当はないのだろうかと仏縁ある方は参究始めたんですね。
「正しい修行・療法」の見極めは大切ですが、・・・「正しい修行・療法」においては、いわゆる「マイペース」はおすすめしません。

>日常のことにしたって、何でもすぐしんどくなってしまい、・・・

「しんどくなって」の時は「しんどくなって」のままやったことは、「しんどくなく」やったことと同じです。
「目的」は「やったこと」にあったのですから。
「しんどい」の思いに「良し悪し」なし。どんな「思い」も思いっぱなし。現われては消えていくのです。そのことはそのことで終わったのです
そこに「思ったのは私」が中心になると、「しんどい」と「思い」が出た時、出て消えたんです。そのことはそのことで終わったのですが、それを続けてその「私」と認識して「標準点・始点」を決めてしまうと、そこから、「私は日常のことにしたって、何でもそうで、・・・」と物語が展開されていくから、「苦悩」することになるのです。

>・・・それほどは一生懸命できない自分に、・・・

繰り返しですが、そのように、「分かった形」に「言葉」で置き換え「そういう私だ」と決めないことをおすすめします。
「それほどは一生懸命できない」と、内面的な「自分で見た自分」については問われてませんね。
「やれたこと」に用事があるのです。

>自忘なんて死ぬまでに私に訪れないよ。となって

いつかと言えば、「今」です。「地球」「太陽」「月」「私」が生まれる前です。
繰り返しですが、そのように、「分かった形」に「言葉」で置き換えて「そういう私だ」と決めることができないところに、わざわざ、「私」を毎度作り上げて「苦悩」しているのです。
そういう「私」を認めておいて、「ある」こと前提に、それを修行によって滅しようというのではないのです。そういう「考え」方で行かない。「私」の方から行かない。「私」対「私」作業になるからです。
いきなりぶっつけの事実に殺されたらいいです。
では・・・というと、すでに殺されておるのです。もうすでに出来上がってあるのです。なぜそんな回りくどいようなことになるかいうと、繰り返しですが、そこに、その都度、「私」を毎度作り上げていたことが明らかになるからです。明らかになると、もう「用事」がなくなります。

>先生からは、あえて座禅をしなくていい、というお言葉を頂いているのに、やっぱ、早く悟りを得ないと、という気持ち

そういう、ご「縁」がいただけて、ほんとうにほんとうにほんとうにありがたいですね。
「得る」というのは「得る」ことなし、「すでにそうだったんだ」もなくと頷くだけです。得ようとすると、繰り返しになりますが、離れますから、得ようとする必要なしです。

「動中の禅」と呼ばれる「日常活動」中に「脱落」することが多いと言われていて、それぞれですが・・・。以前にも申したように、「坐禅」は、「坐」に限ったことでなく、「坐」=「行住坐臥」=「日常生活活動」であり、「坐」という作用に「坐」という作用を忘れることです。つまり、「坐忘」し切っているこのままです。「坐忘している自分」を観察しない。
原田老師は、「単に座(=坐蒲)を暖めなさい」とよく言われました。その話を申し上げると、宇佐先生は「はぁーそうですか」とニコニコして感心されていました。

>悟り信心は、結局は「自分のために」得たい、得る目的と思われるのに、

「自分のために」すると「自分」対「自分」の作業になり、釈尊6年の「苦行」と同様になります。
「あて」が外れて、「自分のために」「人のため」もなくなります。

>いつ得られるかわからない悟り信心を得られるまで

「いつ」については、前述のとおりです。

>矛盾してないんだろうか、とか考えたり、何が何だかわからなくなって

「考えの世界」の工夫は、熱心に追究するほど、「答え」が出ても、しばらくするとにそれでいいのだろうかと、何度も「念」が起こることがしばしばあり行き詰ります。しかも、「実際」から離れます。
「何が何だかわからなく」「答えなし」のまま、「環境状況の必要」に臨機応変されていっているだけ、そのように、知ろうとする前に、活動してある承当です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2017.01.09 00:53
ありがとうございました。
ありがとうございました。
修行も、悟りも、坐ることも、聞くことも、矛盾についても。。
ありがとうございました。

事実生活、します。

2017.01.09 11:14

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