「治らずに治った」

「治らずに治った」という「倉田百三さんの言葉」があります。
これに、森田正馬先生が不十分だと意見しました。
なぜですか。
合掌低頭






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.24 2013 全治 comment8 trackback0

Comment

ことぶき
>では、なぜですか。
「治った」と認めているからですか?正解だったら嬉しい!!
2013.11.24 16:55
ことぶき様へ
>>では、なぜですか。
>「治った」と認めているから・・・


そうです。

「治った」と「自分」が距離があるから、認識することができる。
(ですから、「現在」の「自分」を観察できないのです。)
つまり、
「治った」で「治った」がなくならないと(すりつぶされないと)いけない。

「治った」そのものであったら「治った」ということがなくなるんです。
「人間です。魚じゃないです。」といちいち断らないと同様です。

あるいは、「治った・治らない」の言葉が残っておるからといってもよい。
『青天なお痛棒を喫すべし』などと表現されます。

つまり、「治った・治らない」の言葉が残っておる限り、その二元世界の「治ったフォルダ」「治らないフォルダ」を行ったり来たりしているわけです。そういう相対世界から一歩も出ていないんです。
「治った」というのは、その意味で「治らない」といってもいいです。

お釈迦様は、そういう相対世界から脱してもらおうと(あるいは、いままで、いろいろ説明したけど、つまりは、こういうことだよと・・・)
あえて、わざわざ、花をつまんでハラリと落としてみせたんです。
迦葉尊者は、釈尊のそういうパフォーマンスに破顔したのでしょう。


合掌低頭、不識

2013.11.24 18:59
とも
不識様

眼前生活がなかなか続かなくって困っています。

思いに引きずられて、惰眠を貪ってしまったり、
ついついお酒に逃げてしまったりという具合です。

眼前生活を続ける断固たる意志を培うためには、
どうすれば良いのでしょうか。

やはり、どんなときでも、眼前生活を続けるしかないのでしょうか?

たぶん、そうだとは思うのですが・・・

2013.11.27 20:47
ただいま
浄土真宗の妙好人のことばに

「助かってみれば、助かることもいらんかった」

と言うのがあります。

眼前生活。ただ、今のことをする。

相手の話を聞く、話す。

酒を飲むときには、飲む。

素直に、今のことをする。

それが自然に、しようと思わなくても、眼前生活をしている。

と続けております。
2013.11.30 08:50
とも様(11.27)へ
>惰眠を貪ってしまったり、ついついお酒に逃げてしまったり・・

それらは過ぎたことです。

毎回、その時その場限りで終わっているんです。

ですから、
それはそれとして、
次です。



>眼前生活を続ける断固たる意志を培うためには、どうすれば良いのでしょうか。


「心臓を動かす断固たる意志を培うためには、どうすれば良いのでしょうか」
と聞かれたら、どうですか。

意志以前にこうあるそのままでいてくださいということを申しているんです。

「眼前生活」とあらためて、わざわざ、言う必要のないことを申しているのは、
「内向きの工夫」から、結果として、離れてもらう方便・手立てです。

ですから、
生活上の必要に応じて、もよおされていくようにすればよいです。


>やはり、どんなときでも、眼前生活を続けるしかないのでしょうか?

それ以外はなんですか。
それがすべてです。

顔洗ったり、トイレ行ったり、ご飯頂いたり、仕事したり勉強したり、・・・わたしたちの営みですから。


また何かありましたらどうぞ。
合掌低頭、不識
2013.11.30 21:32
ただいま様(11.30)へ
>「助かってみれば、助かることもいらんかった」

そうですね。

内向き努力しておる時は「助かるべき自分」があったんです。
「助かってみれば」というのは、「目の前」しておるんです。
目の前しておったら、おのずと、「助かるべき自分」に意識のライトがあたらないから、見えなくなってしまう。


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2013.11.30 21:35
とも
不識様

お返事ありがとうございました。
心にすっと染み入ってきました。

働きにまかせて、眼前生活をやってまいります。

2013.12.02 02:18
とも様(12.2)へ
> 働きにまかせて、眼前生活をやってまいります。

「どんなときでも、眼前生活を続けるしかないのでしょうか?」とご質問いただきましたが、
釈尊も6年間徹底的に、「自分対自分」をやられて、精根尽き、刀も折れ矢も尽きたんです。
おのずと、「内戦」が消失し、ただ、そのようにあった。眼前には「眼前」だけ。

こちらから、「自分」を「自分」で持ち運んで、「眼前」に持っていこうというんでなく、おのずと、そうあるだけ(眼前にあるとおり)です。

そこで、ぼろぼろ、ずたずたで、ただ、(坐って)あったんです。
そして、明星の光という縁で「自分」がない事に気付いたんです。

働きにまかせてある時、そのものである時、
苦悩する「自分」がないのです(本人に知らずに)。
それはそのものとひとつにある最中にはわからない、後でそうだと気づくんです。
(その最中に、神経症で言えば、「治った」と認知している時はそうでない)

ですから、生活即道(神経症で言えば、眼前生活即「治り」のすがた)です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識


2013.12.08 17:42

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