香樹院の「あるがまま」

浄土真宗の香樹院徳龍という師が提唱の時、「あるがまま」と言われた。それを聞いていた老婆が「あるがままですね。」と言ったところ、師は「そうじゃない。」と言われた。これはどういうことですか?
合掌低頭




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.08 2013 あるがまま・如如 comment17 trackback0

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ことぶき
老婆が{あるがまま}というイメージ・考えを持ってしまったからですか?
師の「そうじゃない。」は「{あるがまま}というイメージに自分を向かわせたらだめですよ」という意味じゃないかと思います。
2013.12.08 16:16
ことぶきさんへ(12.8)
今回も記事の質問にご回答コメントありがとうございます。


>老婆が{あるがまま}というイメージ・考えを持ってしまったからですか?
師の「そうじゃない。」は「{あるがまま}というイメージに自分を向かわせたらだめですよ」という意味じゃないかと思います。

そう、
「{あるがまま}というイメージ・考えを持って(それ)に自分を向かわせたらだめですよ」
ということですね。

向かわせる「{あるがまま}というイメージ・考え」・「自分」という実体はないということです。

ただ、
{あるがまま}というイメージ・考えが出たら、出てくる分にはかまわんのです。

示したいことは、
{あるがまま}というイメージ・考えと{あるがまま}と言語で表現されるそういう状態・様子とは別ものということですね。

どこが別ものかというと、{あるがまま}というイメージ・考えは、情報化概念化で変換されたものですね。そして、それは固定的なんですね。それが実物に思えて振り回されることが多いんです。

{あるがまま}と言語で表現しようとするそういう状態・様子は、流動的で固定されていない・こうだと言い切れない・決まったかたちのない・・・ような状態(実体がない)です。

ですから、{あるがまま}と認知して概念化する以前が、そういう様子(あるがまま)なんです。
「無常」という実際を示そうとしているのに、概念化によって固定的になって、{あるがまま}という言葉だけ無常の外のようなことになってしまう。

神経症の文脈で言うと、
「私は神経症だ」と、言葉で、くくってしまったら、もう固定化して、それを実物と、考え(虚構)の中で思い込んで、(虚構の「自分と自分」が)格闘(葛藤)して、疲弊して、生活がおろそかになるのが「神経症」という名の「苦悩」です。

合掌低頭、不識

ところで、・・・以前のご質問(春は花、夏ほととぎすのコメント中 )への回答・ことぶき様11.24へにご返答ないのはそれで納得ということですか?あるいは、そうでないということですか?

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識



2013.12.08 19:11
ことぶき
不識様、ご返答ありがとうございます。

>ところで、・・・以前のご質問(春は花、夏ほととぎすのコメント中 )への回答・ことぶき様11.24へにご返答ないのはそれで納得ということですか?あるいは、そうでないということですか?

11/30の不識様のコメントに気づきませんでした。11/24から数日、気にしてたのですが・・・スルーされたと思い込んでおりました。
大変失礼しました。申し訳ありません、今後気をつけます。


>以前、神経症日記ブログに別名で投稿された方ですか?
あちらには一度も投稿してないと思うのですが・・


>ここにはどういう目的で投稿されてらっしゃるのか?
ここに投稿する目的は理の上で理解を深めようとしてるからかな、理解したことを確認してるのかな、自分でもあまりはっきり目的意識はもっておりません。ブログの内容がたいへん興味深いので、なんとなく投稿してます。

不識様の返答を読んで、読んだときは「なるほどな~、そうか」と納得しても、結局自分の状態を認めて概念化して、またそれを不識様に質問するのはよくないと最近思ってました。
2013.12.08 20:48
ことぶき様へ(12.08 20:48 )
>スルー

スルーはしません。

>不識様の返答を読んで、読んだときは「なるほどな~、そうか」と納得しても、結局自分の状態を認めて概念化・・するのはよくないと最近思ってました。

そうです。

このブログが、「自分」を認め、向くことになったら、
それは、ことぶきさんには、面白くないことです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2013.12.08 22:29
ただいま
この「葛藤」と言うこと。

「あんな奴は」と思って

あんちくしょう!どうにかしてやろう、と葛藤して苦しむこと。

「あんな奴は」も実は「こんな自分」に当てはめているのですかね。

「自分対自分」と言いますと、「こうあらねばいけない自分」と

「そうなれない自分」と考えてしまいますが、

「あんな奴は許せん!」と思って思考を振り回し

「勘弁ならん!」と、うんうん葛藤している。

それは、相手対自分と思ってしまいますが、

「許したい自分」「こうして欲しかった自分」と言う

自分対自分になるように思います。

ならば、「葛藤」が生じる時は、結局、テーマがなんであれ、

自分対自分をしていることになるのでしょうか。

もちろん「葛藤」が起こることが悪いのではなく、

眼前。

「こんちくしょう〜」と思う心のまま、テレビを見ると、

確かに「こんちくしょう〜」も、相手も消えてしまいます。

不識さんが、

「眼前に関わること」と言われたことと思いますが、

でも、なぜか、まだ、その葛藤が辛いくせに、

その葛藤を妙に、してしまう私がいるのです。

痛、かゆい、と言いましょうか、

嫌なのにやってしまう。

やりたいと思う自分がいるのです。

その、そうしてしまう「私」も概念なのでしょうが。


2013.12.14 07:27
ただいま
先程のコメントを書きまして、

「言葉を持ち込まない」の不識さんのコメントを読んだことを思い出しました。

で、よく思い出す、そして葛藤する出来ごと、ワザと思い出してみました。

いつもは、そこで、言葉が湧いて、葛藤が増大して行くのですが、

その場面を思い出すだけ、では、なんてことはないのです。

また、その後で、人との接触で、腹の立つ場面がありました。

怒りの感情が湧いて、そこで

「どうして、またそんなことするかな~」

と言葉が出て・・・

となるところが、「どうして・・・」で言葉を切ってやると、

そこまででした。

この、言葉を持ち出して、と言うことが、分かったようです。

大きな感情の波が来れば、分かりませんが、

言葉を持ち出して、自分で葛藤の相撲を取らない。

心がけたいと思います。

そして、それは、眼前に関わることです。

湧いた心に関わることではないと言うことです。
2013.12.14 10:54
ただいま様へ(12.14 07:27 )
>それは、相手対自分と思ってしまいますが、「許したい自分」「こうして欲しかった自分」と言う自分対自分になるように思います。ならば、「葛藤」が生じる時は、結局、テーマがなんであれ、自分対自分をしていることになるのでしょうか。

そうであるともいえるしそうでないともいえます。


>「葛藤」が起こることが悪いのではなく・・

「葛藤」は、本来成り立たない、虚構です。


>「葛藤」が起こる・・、眼前。

そうです。


>「眼前に関わること」と言われたことと思いますが、

これから、自分を持ち運んで「眼前に関わること」に動け、動け、・・・より、
すでに、「眼前に関わること」にあるんです。
しかし、ウエアラブル端末メガネ上に映ってる文字ばかり注意がいって、
すでに眼前にあるのに眼前から離れているんです。



>でも、なぜか、まだ、その葛藤が辛いくせに、その葛藤を妙に、してしまう私がいるのです。痛、かゆい、と言いましょうか、嫌なのにやってしまう。やりたいと思う自分がいるのです。

「葛藤」が出たら出たで出っぱなし。

その後、「葛藤を妙にしてしまう私」、「やりたいと思う自分」というように概念化しないようにお願いします。


>その、そうしてしまう「私」も概念なのでしょうが。

そうです。
それは「自忘」すれば、はっきりします。


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2013.12.14 18:10
ただいま様へ(12.14 10:54 )
>大きな感情の波が来れば、分かりませんが、言葉を持ち出して、自分で葛藤の相撲を取らない。心がけたいと思います。そして、それは、眼前に関わることです。

そうです。
「心がけたい」の内容が、おっしゃるとおり、「心の作業」にならないようにお願いします。


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識


2013.12.14 18:21
みなちゃん
不識様、いつも有難うございます。昨日、ふと気づいたのですが、前を向いている時、身体が、無くなり、目の前だけになり、腕を前に出すと虚空から腕が出現し、下を向くと胸から下が出現しました。しかし、身体の感覚は有りますが、顔を向ける方向によって身体が出現したり消えたりします。特に顔は目が目を見ることが出来ないように、見えません。これは、目の前だけになる時節の一歩になっているでしょうか。心身脱落の方向に行っているでしょうか。身体が、出現したり、出現しないは、気にしないで目の前だけになっていればいいと思うのですが。気になりましたのでご教示よろしく不識様お願いします。


2013.12.14 22:41
みなちゃん様へ

>出現したり消えたりします。

そのように実況中継している「自分」がないのです。
「出現する」でもない。「消える」でもない。
言葉で言うと小難しく聞こえますが。


>・・これは、目の前だけになる時節の一歩になっているでしょうか。心身脱落の方向に行っているでしょうか。

「・・の一歩になっているでしょうか」「身心脱落の方向」というように、
これから、「脱落していない自分」が、「修錬」を積んで、段階的に、「身心脱落」に近づくのではないのです。言わば、そのような「習禅」ではないんです。

結果から言いますと、・・・すでに、「身心」は脱落していたことに気づく時、
さらに、脱落した「身心」は、もとなかったと気づく。
そして、気づいた分、「余計事」であるから、大事に持っていようとしないのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識


2013.12.15 11:07
みなちゃん
コメント有難うございました。目の前実行やっていきます。不識様頑張ってください。
2013.12.15 16:56
みなちゃん様へ(12.15 16:56 )
>目の前実行


「一所懸命」に実行していますと、
見たら見たものに、聞いたら聞いたものに、「ひとつ」ということがあります。
ただ、「ひとつ」の時は「ひとつ」と分からない。分からないから「ひとつ」です。
「目の前」も「実行」も「自分」もない。

そこに一念出て、気づくんです。



よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2013.12.15 17:22
みなちゃん様へ(12.15 11:07)の訂正
みなちゃん様へ(12.15 11:07)のコメントについて、以下のように訂正させていただき、おわびします。ごめんなさい。

(下から5行目)
・・・すでに、「身心」は脱落していたことに気づく時、

「身心脱落」の時、


合掌低頭、不識
2013.12.15 17:37
みなちゃん
コメント有難うございます。不識様。
2013.12.15 18:47
ただいま
ウエアラブル端末メガネ

昨日、不識さんのコメントを読み返しました。
ウエアラブル端末メガネ
最初に読ませて頂いた時は、調べる余裕がありませんでしたので、
ネットで調べました。
メガネの中に情報が見えるものだと分かりました。

井上住職の
「問題のポイントは、悩みのもとである意識・認識・心の働きそのものにとらわれて、その意識・認識・心の働きの外に一歩として出られないということでした。つまり、心の働き自体が、心の働きの微妙で自在な活動に惑わされて、そこから少しも出られず、心の働き・認識・意識の中にあって、意識の内容だけを問題にし続けていたという事に気づいたのです。そこで、わたしは、意識の内容など問題とせず、「なにもしない」ことに集中しました。」

この文章を思い出しました。

そうでした。
すでにある、人間の実相でした。
自分の実感からも分かることです。

そして

いつまでも、目の前に現れる、「ああだ、こうだ、そうだ」これらの、
心の動きに惑わされて・・・

不識さんコメント
「ウエアラブル端末メガネ上に映ってる文字ばかり注意がいって、
すでに眼前にあるのに眼前から離れているんです。」

すでに、そうでした。
メガネで見える光景、そして一瞬遅れて、ウエアラブル端末メガネ上に出てくる、その説明(心)です。
それらは、すでに、子供の時からそうです。
メガネに出てくる説明(こころ)が変化しているだけです。

すでにあった、自分の実相。
この実相になりきる。

ことです。


2013.12.16 10:05
みなちゃん
ただいま様。不識様の説明がお陰でよりよくわかりました。有難うございます。
2013.12.16 23:26
ただいま
みなちゃん様

ありがとうございます。
しかし、私は、まだ「求道中」の身・・・こう言うと不識さんに怒られますが・・・
間違っているかも知れませんので、参考程度でお願いします。
2013.12.17 14:01

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