「神経症の全治」ー3

「心の用事による気づき」においてでなく「実際生活上の必要に動かされる姿」
において「全治」するのです。
「立つものは立つ。坐るものは坐る。これで仏道の修行は終わり。」
良寛さんの「言葉」です。
「特別な事」でない「日常の営み」に徹するのです。
合掌低頭







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.21 2017 全治 comment10 trackback0

Comment

茶色カマキリ
不識さん、毎週ブログありがとうございます。毎週たのしみにしています。

”日常の営みのみ、ひたすら。”
なのですが、最近、怒りの感情を抑えにくい。家族などまわりの人の非を思わず咎めてしまったり・・・。
後で後悔することがよくあります。

日常の営みにに徹する、それのみでありたいという自分と、自分の感情の動きにいらだってしまう自分。
同じ自分で全く矛盾もないのですが、何とかしたいなぁとも思っています。

今週の言葉とあんまり関係ないようですが。
2017.08.24 20:29
茶色カマキリ様へ
>最近、怒りの感情を抑えにくい。

ご承知のようにこの「療法」では「抑える必要」がありません。「抑えること」「認知の修正」等の「心の作業」すべて「虚構」だからです。
ただ、出る「怒り」は出るまま。「心に用事」なしです。
こんな「手間」の省けることはありません。
「心」は「自由」に放っておくだけです。

多くの「精神療法」では、「心」に「行動」を一致させなくてはならないと教えられます。そのため「行動」前に「心」を整えるなどと余計なことをするかもしれません。
繰り返しますが、そんな手間をかけず、出たら出るまま。
「行動」=「心」ですので一致させる「必要」もありません。

>家族などまわりの人の非を思わず咎めてしまったり・・・。

事情はよく存じませんが、「カマキリさんの非」は、「家族」にとっては「非」とは限りません。
以下は、この「療法」とはかけ離れますが、「言いたい事」を伝えるという「目的」で申し上げます。
「同じメッセージ」を伝えるにも「伝え方」により伝わりにくいことがあります。そのため、ひとつの「方便」として「アサーション・アイメッセージ」があります。
ひとつの「参照」になるかもしれません。

>後で後悔することがよくあります。

「行動した自分」を「目的」として改善しないものの、
次の「行動」は最適化することはできます。

>日常の営みにに徹する、それのみでありたいという自分と、自分の感情の動きにいらだってしまう自分。同じ自分で全く矛盾もないのですが、何とかしたいなぁとも思っています。

「コメント」する時は「自分概念化」して書き込んでいただかないとこちらも分からないことがあり仕方ない事ですが、・・・
「このものはこうだ」と「概念」で置き換えると「虚構上の自分」が立ちあがります。そして、「時所位」で流動変化し、本来掴めない「このもの」を「概念」上固定させ、「自分物語」とともに「これが自分だ」と掴んだ気になり、それに対し「何とかしたいなぁ」が出てきたのかもしれません。ご承知のように、「自分」に向けていくら「虚構上の工夫」したとしても無駄に終わります。

「日常の営みに徹する、それのみでありたい」という時は「日常の営みに徹する、それのみでありたい」のみです。それで終わっています。「自分の感情の動きにいらだってしまう」という時は「自分の感情の動きにいらだってしまう」のみです。それで終わっています。その時にそれだけです。
ですから同時に「二つを比較」することは本来できません。
可能に思えるのは、「実際を離れた観念」の中だけです。

ですので、「(自分について)何とかしたいなぁ」と出たら出たまま、「心の用事」せずその「時所位」のそのまま、「最も急がれること」に動かされるのです。有効な「工夫」は「自分に向けての努力」以外です。言わば「外向き」の「活動」(精神活動含め)です。一言で「日常の営みに徹する」ということです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2017.08.28 22:39
茶色カマキリ
不識様 コメントを書いていただきありがとうございます。

書いてくださったことを読んでみますと、なるほどそうだなぁと思えるのですが、一人ではなかなかそう気づきません。有り難いです。


>この「療法」では「抑える必要」がありません。「抑えること」「認知の修正」等の「心の作業」すべて「虚構」だからです。

>「カマキリさんの非」は、「家族」にとっては「非」とは限りません。


というようなところが、特に「そうだよなぁ」と思わされました。日常の瞬間瞬間では、そう気づかないんですが。


コメントの中で一つ私の理解不足でよく分からない所があります。

>「コメント」する時は「自分概念化」して書き込んでいただかないとこちらも分からない

”「自分概念化」して書き込む”というのが、よく分かりません。お手数をかけますが、かみ砕いて教えていただけると助かります。

2017.09.04 10:23
茶色カマキリ様へ
>「自分概念化」して書き込む”というのが、よく分かりません。


「日常の営みにに徹する、それのみでありたいという自分」、
「自分の感情の動きにいらだってしまう自分」
というように、そういうように「自分」を「認識」をした時には、その「本体」はすでに手もとになく変化しています。にもかかわらず、本来掴めないで「自分」を「概念」置き換える・「言語化」することが「自分概念化」です。
そうして「概念化」された「自分」を「本物」として、持ち出され書き込まれても、それは「虚構」上の応答に終始することになるので「質問なさる方の益」にはならないのです。
しかしながら、お気づきでなかったら、そう書き込まれる事によって、「問題点」が分かり指摘させてもらうことができるので、それはそれでやむえないこともあるということです。

「自分概念化」とは、(その考え上としての)「自分」「自分」で見た「自分」を言葉で説明することです。「概念」で説明された「自分」は、いくら詳細に説明されても、「頭の中にある見方感じ方を投影され脚色された見解・考え」にすぎません。実際の「このもの」とは別の「虚構」です。
もしこの「療法」にそうのであれば、「観念生活」を脱して「事実に生活する「趣旨」ですので、おすすめしません。


生まれた時、分からない「世界」へ生まれたとも分からない。生まれたもの「自身」も分からない。
「社会生活」上便宜的に「名前」をつけ呼ばれ、ものごこころついた頃から、「このもの」を「私・自分」と思うようになったのです。
本来、「眼が眼を見る事が出来ない」ようにこの「瞬間」の「このもの」は分かりません。この「瞬間」は「ひとつ」ですから「ひとつ」が「ひとつ」をみることができないからです。この「瞬間」は「情報化」できないのです。
以前に申したように、分かるということは、文字通り「分離」が生じて(そういう実体もありませんが)、分かるのです。ですので、「分かったこと」は、「過去(未来)の情報」に過ぎないのです。

「このもの」を「私・自分」と思うようになり、その思いの上の考えの上の「自分」は、実際のこのものとは別とお分かりでしょう。
「魚の写真」と「ナマ魚」のように、「固定した情報」と「一瞬一瞬のこれだと決まっていない状態」、
つまり「観念(内容)」と「事実そのもの」の関係です。そこで、「観念(内容)」と「事実そのもの」を同一視するから「迷い」が生じるのです。
ですので、もしこの「療法」にそうのであれば、「概念」で説明された「自分」は「本物」ではないと知って、以降「自分説明」から離れ、「精神活動」を「内向き」に使わず、単に「自分以外」・「外向き」にお使いになればよいということです。
よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2017.09.10 23:22
茶色カマキリ
不識さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。

「自己概念化」について詳しく説明してくださったので何とか理解できたと思います。

ついつい自己概念化してしまうのというのは、人間であるが故の癖みたいなものなんでしょうね。でもそのように概念化した「自己」は脳のでっち上げた像であって、眼が眼を見られないのと同様に、実際の自分とはかけ離れたものなのだ。そんなふうに考えました。
でも、多くの人は便利だから自己概念化した自己を、「自分のイメージ」として社会生活の中で利用しているんですね(他人に対してもそのような「他人の概念=○○さんのイメージ」を使っているように)。それが、誤解を生むことになったりということにもなってしまう。
そんなことも考えました。

ありがとうございました。
2017.09.13 05:35
茶色カマキリ様へ
>多くの人は便利だから自己概念化した自己を、「自分のイメージ」として社会生活の中で利用しているんですね

というより、迷って苦しみます。
例えば、神経症は自己概念化し「これが私だという自己」がなければ成り立たないのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2017.09.17 00:17
茶色カマキリ
こんにちは。
なるほど、そうですね。自己イメージにとらわれすぎるてしまう人は、良くいるように思います。
自己概念化がなければ、神経症はなりたたない。またまた、なるほどです。

ありがとうございました
2017.09.18 20:39
茶色カマキリ様へ
>自己概念化がなければ、神経症はなりたたない

そこで注意することは「自己概念化しないように努力」しないのです。「心の用事なし」。

繰り返しですが、
知らずに「自己概念化」が止めばよいのです。
知らずに「自己概念化がない時」というのは、「外向きの活動三昧時」です。

ここで得た「なるほど」をお忘れになって、
単に、「生活上の必要」に臨機応変なさって「生活上の用事」なさってください。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2017.09.19 00:42
茶色カマキリ
返信、ありがとうございます。

生活の用事に向かうって、たのしいですね。
適当によい加減用事に向き合っていきたいです
2017.09.19 18:26
茶色カマキリ様へ
>生活の用事に向かうって、たのしいですね。
>適当によい加減用事に向き合っていきたいです。

ありがとうございます。
それでけっこうです。

揚げ足を取るつもりはありませんが、
参照までに、・・・
「修養」ということから申し上げますと、、
「たのしい」「よい加減」とながめる余裕がないほど、
「生活の用事」になりすますとよろしいです。
「修養」も「生活の用事」も、「たのしい」も「よい加減」も「そう思う自分」も忘れてしまうほど。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2017.09.24 00:02

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