「神経症の全治」ー4

「全治は、三原則とでも言いますか、実証しない、根拠持たない、保証されないのです。」
宇佐先生の「言葉」です。
「知らなさ、分からなさ、決められなさ」です。
証される「全治」、証する「自分」はないのです。
「全治」に実体なく、「分かる」対象でなく「分かる」ことで成立しません。
「治る」「治らない」「神経症の自分」「健常な自分」という「概念」に置き換える以前の、
「生活上の必要に動かされる姿」において「全治」するのです。
合掌低頭






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.28 2017 他の療法との違い comment7 trackback0

Comment

コロコロウッド
不識さん、初めまして。三聖病院に20年くらいまえに通算1年くらい入院経験のある者です。表現のうえで脱線があるかもしれません。そこはお許し下さい。

不識さんのものと思われる、森田療法についてのアンサーを読んで、本当にこれは凄い!凄すぎる、宇佐先生がおっしゃったことを間違いなく体得された方だ!と驚嘆致しました。

と言いますのも、宇佐先生のもとで、講話を聞き、作業して退院した人でも、各種神経症が完全に100%良くなった人を僕は寡聞にして知らなかったからです。しかし、不識さんの存在を知って、少ないながらも、やはりいらっしゃるんだ!!と感動しました。

僕は、自分で『最後のトラップ』と呼んでいるんですが、森田療法・宇佐療法でありながら、森田療法・宇佐療法を捨てる、ということを会得出来ずにいました。
しかし数年前くらいに、宇佐講話ですら自分の心・強迫性障害には役に立たない、ことを完全ではないにしろ、体得できたと思います。

つまり、これこそが生活の発見会が標榜する理論学習の大切さ、を否定するところ。
宇佐療法・宇佐先生のおっしゃった重要なことでさえも、それを知識として知っていることは別にいいのですけれども、自分の心・症状には、森田療法・宇佐講話ですらも、使ってはならない!役には立たない。参考にすらならない!ということが体得できたと思います。

まさに、人間の知性というものは、自分を救うことが出来ない。
僧に会っては僧を殺せ、仏に会っては仏を殺せ、とはこういうことだったのか!と新鮮な驚きがありました。←これは合っていますでしょうか?

不識さんに聞いて頂きたいこと、今後、宇佐療法をこの世から絶やさないために、我々に何が出来るのか?など、一度、直接、不識さんとお会いしてお話したいことがたくさんございます。
宇佐療法がこの世からなくなってしまうことは、神経症や強迫性障害で死ぬほど苦しんでいる人から、光を奪うようなものです。人類の損失と言っても過言ではないと思います。

不識さんは、三省会には毎回来られておられますでしょうか?
僕は久しぶりに、3月の三省会に参加したいと思っております。
もし、不識さんもお越しになられるようであれば、ご挨拶をさせて頂けないでしょうか?
連絡のために、お役に立つ時のことを考えて、僕の携帯メールアドレスを書かせて頂きます。

bluefairy5050アットマークsoftbank.ne.jp
※アットマークを@に変換します。
2018.03.02 12:18
コロコロウッド
宇佐先生が確か、講話でこうおっしゃってました。
↓↓
前の院長はこう言ってました。講話は月をさす指だ、と
月と繋がっていない。(ところが肝だ)


このお話は、まさに宇佐先生の講話・おっしゃったことも、(直接的には)役に立たない。直接、自分の症状を治すことに役立てよう、参考にしようとしてはいけない、ということなんだなあと思いました。

不識さんの今後のご活躍も祈念しております。
2018.03.02 12:46
コロコロウッド
すみません、書き忘れました。
僕にはまだまだ不十分なところがあります。
ですので、不識さんにいろいろご質問させて頂いたり、不識さんからご教授をお願いしたり、したいです。
どうぞ宜しくお願い致します。
2018.03.03 00:15
コロコロウッド様へ
>僧に会っては僧を殺せ、仏に会っては仏を殺せ、とはこういうことだったのか!と新鮮な驚きがありました。←これは合っていますでしょうか?

そのようなことです。

(「言葉の世界」で表現するときにやむ得ず「ひとつ」と言いますが、実際に「ひとつ」も「ふたつ」もありませんが)
「殺」とは、「ひとつ」にもどるということです。
つまり、「対象」がないということです。
したがって、「道理」を使う「対象」を持たない。
「考えられた自分」・「概念化した自分」を、「実物」と「認識」しないということです。

>不識さんは、三省会には毎回来られておられますでしょうか?

参加できておりません。

>ご挨拶をさせて頂けないでしょうか?

どうぞよろしくお願いします。


>講話は月をさす指だ、と月と繋がっていない。(ところが肝だ)
このお話は、まさに宇佐先生の講話・おっしゃったことも、(直接的には)役に立たない。直接、自分の症状を治すことに役立てよう、参考にしようとしてはいけない、ということなんだ

そうです。

「努力する力の入れ所」が仮にあるとしたら、
「自分」に向けると、「自分対自分」になるからです。
そして、「生活」がおろそかになりがちです。
「意識」が「同時」に「ふたつ」に向かないからです。

余談ですが、
「月」を見たら、
「指」も実は、「法そのもの」と知るのです。
「法」でないものはない。
したがって、「一毫も仏法なし」と言われます。

>いろいろご質問

よろしければ、どうぞ。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2018.03.04 16:57
コロコロウッド
不識さん、ご返信ありがとうございます。

お聞きしてよければなのですが、不識さんは、今ではもう三省会に参加されていないのでしょうか?


宇佐先生は、宗教は人間になくてはならないもの、とよく仰いますが、宇佐先生の考える宗教とは、社会一般的に宗教と理解されているものとは、異なるのでしょうか?(※世間一般的には、オウム真理教や何々教と呼ばれている宗教団体はすべて宗教と認知されているように思えます)


>>「法でないものはない」  のに、「一毫も仏法なし」と言われます。」 の部分が分かりません。
すみません、ご説明頂いてもいいでしょうか?


宇佐晋一先生から、宇佐玄雄は「まだ治ってませんよ」とよくおっしゃってたと聞きました。
「満点です」とよくおっしゃってた宇佐晋一先生とはまさに対照的な発言だと思いますが、これは修養生を厳しく見ればまだ治っていない、しかし大目に見れば、心の中は症状に負けて、作業など日常生活をおくる姿は満点ということでしょうか?
2018.03.04 21:25
コロコロウッド
以前の僕は、(森田療法・宇佐先生の講話で理解できたことをもとにして、)森田療法を使って自分の症状を治す・あるがままに腐心していました。これだと自分(の心)との問答がずっと続いていて、消えることがなかったです。心・症状の状態を確認してばかりいました。

これではダメだったのですね。
森田療法=宇佐療法でさえも自分の心には容れず、自分との問答をしない、言葉は心の外のことにだけ使って、自分(の心)には言葉は使わない・容れない。

実は、いつでも常にこうではないのですが、(不問療法のほうの)森田療法・宇佐療法と出会えて本当に良かったです。
そうでなければ、森田療法は素晴らしいには違いないですが、いつまで経っても自己問答が消えることはなかったと思います。
2018.03.04 22:26
コロコロウッド様へ
>今はもう三省会に参加されていないのでしょうか?

前回お答えしたとおり参加できてません。

>宇佐先生の考える宗教とは、社会一般的に宗教と理解されているものとは、異なるのでしょうか?

そのとおりです。

>「法でないものはない」のに、「一毫も仏法なし」と言われます。の部分が分かりません。

例えれば、仮にすべて「男」ばかりなら、「男」という「語」はなくなるのと同様です。
「法でないものはない」は、「すべてが法である」ということです。「すべてが法である」なら、「法」はなくなります。
「理屈」として、そういうことが言えます。

ところで、
実際に「男の人」に「男」と書いて生まれてきますか?
書かれてありませんね。
それと同様で、実際には、「法」も「仏教概念」に過ぎず、もともとありません。

ちなみに、
「考え」は、「事実」の後から、「人」が「名札」をつけたようなものです。
「仏教」も「宇佐療法」もそういう意味において「妄想」・「虚構」です。

>宇佐玄雄は「まだ治ってませんよ」とよくおっしゃってたと聞きました。「満点です」とよくおっしゃってた宇佐晋一先生とはまさに対照的な発言だと思いますが、これは修養生を厳しく見ればまだ治っていない、しかし大目に見れば、心の中は症状に負けて、作業など日常生活をおくる姿は満点ということでしょうか?

「心の中は症状に負けて、作業など日常生活をおくる姿は満点」というのは、大目に見たからではありません。
そのとおりを言ってます。
「厳しく見る・大目に見る」ということはありません。
事実に基づいています。

>森田療法を使って自分の症状を治す・あるがままに腐心していました。これだと自分(の心)との問答がずっと続いていて、消えることがなかったです。心・症状の状態を確認してばかりいました。これではダメだったのですね。

そうです。

>森田療法=宇佐療法でさえも自分の心には容れず、自分との問答をしない、言葉は心の外のことにだけ使って、自分(の心)には言葉は使わない・容れない。実は、いつでも常にこうではないのですが、(不問療法のほうの)森田療法・宇佐療法と出会えて本当に良かったです。

「出会えたら、殺せ」とコロコロウッドさんが言われたとおりです。
「宇佐療法」を「実体あるもの」として、取り扱わないようにしてください。
「宇佐療法」は、やむえずの「方便」「お膳立て」に過ぎません。
ですので、ご「自分」の中で、「教科書」「心の指針」のように残しては、いけません。
「生活」の中にくらまされるのです。

>そうでなければ、森田療法は素晴らしいには違いないですが、いつまで経っても自己問答が消えることはなかったと思います。

「自己問答」は「虚構」です。
ご「体験」を活かして、この後は「自分・心」に用事なく、単に「外向き事実生活」です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2018.03.11 00:11

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