「生」「死」

「私」があって、「生」があり「死」があるということではないのです。
「生」という状態、「死」という状態する「主語」がないのです。
「私」がないまま、そういう状態がその時にあるだけ。
「冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏になるといはぬなり。」(道元禅師)
冬と春のようなもの。冬が春になると思わず、春が夏になると言わないのと同様です。
「主語がない」とは、難しく聞こえるかもしれませんが、何だ、すでにやってたじゃないかと
かように気づくのです。
合掌低頭






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.12 2014 道元禅師 comment6 trackback0

Comment

UK
ブログ主様は発心寺で修行された方ですか?

禅や森田療法に興味がありネット上を彷徨う内にこのブログに出会いました。
過去の文章も興味深く読ませていただきました。

世間でも広く認知されている森田療法がオリジナルと違うものになっているのは知りませんでした。

2014.01.12 21:29
UK様へ
>発心寺で修行された方ですか?

そうです。原田雪渓老師に独参させていただきました。

UKさんもそうですか?


>禅や森田療法に興味があり、、

何のきっかけで?



>世間でも広く認知されている森田療法がオリジナルと違うものになっているのは知りませんでした。


オリジナルの森田療法は、別名、不問療法(つまり眼前だけ)ともいわれています。
つまり、自分をモニターチェックしない(本来できないのですが・・・)んです。
それは、少なくて300以上はあるといわれる精神療法の中では、(知る限りでは)唯一です。
その大事なところを、森田療法学会は、数年前、削除してしまいました。
そして、「自分らしく」生きようなどといっています。

現在、世間でも広く認知されている森田療法は、森田の言葉を飾りとした認知行動療法(マインドフルネスなどの第三世代の認知行動療法を含む)といってよいです。
だから、「全治」はあり得ない。寛解したとしても療法後、副作用が残る。
禅で言えば、それは「習禅」にあたります。

森田療法の新しい解釈もあってよいのですが、もとのバージョンをデータとしてですら、とっておかないで、強引に、削除してしまったことが、学問的にも、おかしいのです。


ところで、UKさんの知る森田療法を教えてくださいますか。


よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2014.01.12 23:03
UK
不識様(←こちらがブログ主様のお名前でよろしいですね?)

原田雪渓老師のことは一年程前に本で知りました。著作は数冊読みました。その流れで井上義衍老師や飯田トウイン老師の本も拝読いたしました。
ちなみに私はかつて臨済宗の老師に参禅してましたが今は縁あって飯高転石老師のところに通参させていただいています。

森田療法については数年前に本を一冊読んだことがある程度でしばらく忘れていました。本のタイトルなどは忘れましたが森田先生や宇佐先生の著作では無かったはずです。
たしか内容は、思考や感情をあるがままにして、とにかく行動有りきで目的達成していくよう励ますような内容だったかと思います。それが釈迦の悟りと同一だとか書かれていたことも記憶しています。

そして最近のことですか、かつて三聖病院に通院されていた方とたまたま知り合う縁があり話を聞く中で、雪渓老師が三聖病院を訪問されていたことなどを知り、森田療法について改めて再認識したところです。

こちらのブログを拝見して感じたのは、オリジナルの森田療法は禅の修行の要点と非常に通じているのかもしれない(というより同じ?)と感じた次第です。

特に専門的に学問として学んだわけではありませんが、家族の中に鬱病や解離性人格障害者、アスペルガーなどがいて、心について昔からよく考えておりました。
禅に答えがあるのではというのは直感です。





2014.01.13 13:31
UK様へ
>原田雪渓老師のことは一年程前に本で知りました。著作は数冊読みました。その流れで井上義衍老師や飯田トウイン老師の本も拝読いたしました。

そうですか。ありがたいことです。


>ちなみに私はかつて臨済宗の老師に参禅してましたが今は縁あって飯高転石老師のところに通参させていただいています。

それはありがたいご縁です。


>・・・本のタイトルなどは忘れましたが森田先生や宇佐先生の著作では無かったはずです。たしか内容は、思考や感情をあるがままにして、とにかく行動有りきで目的達成していくよう励ますような内容だったかと思います。それが釈迦の悟りと同一だとか書かれていたことも記憶しています。


多くの森田療法家が「思考や感情をあるがままにして」という心意識を実体あるものとして概念化・対象化して、操作をさせるんです。
あるがままにしようとしたら、もうあるがままの趣旨からはずれてしまうのです。

森田先生亡き後、弟子のある先生が、神教から派生した西洋の精神医学の視点で森田理論というものを打ち立て(認知行動療法的に)体系化してから別ものになったんです。

一方、森田先生の弟子でもあった宇佐玄雄先生は禅の修行中に神経症当事者体験(宇佐晋一先生も同じく)もあり、森田先生の話を禅の方から裏打ちしていったんです。宇佐晋一先生に至って森田先生の言い足りなかったところを言い得たのです。



>そして最近のことですか、かつて三聖病院に通院されていた方とたまたま知り合う縁があり話を聞く中で、雪渓老師が三聖病院を訪問されていたことなどを知り、森田療法について改めて再認識したところです。


鈴木大拙老師が三聖病院にカレンホーナイという精神分析家を連れてこられたことは存じていますが、・・・雪渓老師が三聖病院を訪問されていたことは知りませんでした。詳しくお聞かせ願えますか?



>こちらのブログを拝見して感じたのは、オリジナルの森田療法は禅の修行の要点と非常に通じているのかもしれない(というより同じ?)と感じた次第です。

UKさんの禅の修行の要点とは?お聞かせ願えますか。


>特に専門的に学問として学んだわけではありませんが、家族の中に鬱病や解離性人格障害者、アスペルガーなどがいて、心について昔からよく考えておりました。
禅に答えがあるのではというのは直感です。


三祖僧粲大師のように「病」とひとつになることで「病」がなくなることはあるかもしれんです。それは、器質性障害より、神経症のような機能性障害(精神状態はいわゆる健常ですが使い様が違っている、病識がある、内省力が強い)に奏功するでしょう。

鬱には、大別して神経症の抑うつ状態とそうでない原因の鬱があります。鬱の場合にも、抑うつ神経症には奏功するでしょう。

その他、ケースが様々で実際にやってみなければわかりません。


よろしくお願いします。
合奏低頭、不識



2014.01.13 17:55
UK
不識様

森田療法が現代のように分裂していった経緯はそのような事だったのですね。

仏教が部派・宗派分裂していったのと同じく、様々な人の解釈が挟まり真意が歪んでしまうのですね。

雪渓老師が三聖病院を訪問されたことについては伝え聞いたことで詳しくは知りません。雪渓老師が訪問された時「自分をモニターしない」ことについて話されていたと院長先生の講話の中で紹介されたそうです。
機会があれば院長先生のご講話拝聴してみたいです。

不識様のご説明の中にもありますように「あるがまま」を認めた時点で「あるがまま」ではなくなる。
同じく、坐禅でも「只管打坐」だから只坐るのだといって「只」を認めて坐ろうと構えることで「只」から離れてしまいます。
「自分」を「自分」で取り扱わない。「意を振り回さない」ことが修行の要点だと思うのですが、でもそれを認めているうちは結局不自由です。坐禅が坐禅になったは私も坐禅も認識出来ない。今のところの私の僅かな体験や学んできたことからの理解です。いつか参禅に決着をつけたいと思います。
禅も森田療法もあくまで月を指す指だと思いますので、比べてもどうかと思いますが森田療法でもそういった決着とされるものがあるのでしょうか?

2014.01.19 14:18
UK様へ
返答遅れてごめんなさい。
(返信は日曜前後になります)

>坐禅が坐禅になった

いわゆる坐忘ですね。


>禅も森田療法もあくまで月を指す指だと思います

月をみたら、指もそのものであったと知るんです。


>機会があれば院長先生のご講話拝聴してみたいです。

三聖病院、宇佐晋一の講話録(音声データ)をよろしければお聞きください。
http://sanseikouwa.blog.shinobi.jp/


>いつか参禅に決着をつけたいと思います。


いつかではありませんね。

そして、決着をつけたいと思う「私」以前に、この「身心」は、すでにこの時、「決着」しておるのです。ご承知のことと存じます。


>森田療法でもそういった決着とされるものがあるのでしょうか?

宇佐療法(オリジナルバージョンの森田療法)としては、神経症の治療目的ですから、決着ということを取り立てて言いません。
治療とはどういうことというと、神経症でおろそかになった生活に立ち戻ることです。
不安が症状なら不安のまま生活することが、「全治」の現前です。
それその時は、治癒する治癒しないをすっかり忘れておる。まさに、こんなふうに治してやろうという計画が棚上げされて、思いもよらず、・・・知らずに、・・・です。
その生活上の用事に一所懸命の時、治癒の状態なんだということがわからないのです。

そして後で気づくんです。それがそうであったかと。
さらに、「治療」すべきことは、もともと、なかったんだということも。
カルテ上「全治」とやむなく言っている状態に、すでに、あったんだということも。

そして、「心意識」に、「自分」に、用事がなくなるんです。
(宇佐療法という方便にも用事がなくなり、宇佐先生の言葉も残さない。)

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.01.19 14:45

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