事実が考えより先

「真を求むることを用いざれ、ただ、すべからく見をやむべし」(信心銘)
真実にあるのに、考えを用いて「他」を求めるから、「脱線」する。「真」のところを「治り」「救い」「悟り」とおきかえてもよいです。「理想の目的地」をどこかに求めようとする考えを起こして熱心に歩けば歩くほど離れるようなものです。「理想の目的地」を考え、求めることがやむと、もともと、すでに、そこだったんです。

一般の療法・修行は、事実より先に考えを先行させるんです。
「自分」を認めその「自分」の考えを「自分」に応用して「自分」を中心にして持ち運んで、練習訓練を積み上げて、立派なものに育て加工するようなことをやっているのです。
治そうと救われようとすること自体が、治らない・救われない「苦悩」を、みずから、作り出している事に気がつかない。
そういうことが(結果として)やめば、「治る」という考えでくくられる以前「救い」という考えで限定される以前のもとの状態のまま。その問題提議以前の状態を、言いようないので、しばらく、「全治」「救い」とか呼んでいるだけです。
言葉・考えでくくられる前を、「あるがまま」とか「事実」とか、仮に呼んでいるんです。

「迷い」は、概念化による。
「私」、「私」流の考え・見方が出ても、使わないのです。結果として。

そうかといって、「私」、「私」の考え・見方を離そうとすると離れないことがある。
その考えを「自分」にそれを応用して、「自分」を取り扱うから。「自分」対「自分」になるから。
ですから、事実の方から、動かされ、主語もなく、対象語もなく、ただ、状況に応じた、活動があるようにまかせていくのです。

合掌低頭









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.30 2014 他の療法との違い comment9 trackback0

Comment

ただいま
以前、不識さんから頂いた言葉


「こうなりたい私」があるままでけっこうですから、

「煩悩」そのものになってください。

 煩悩と対立しなし、同じ方向みて、目の前向かって、生活です。



 外向きの生活行動が、本人の知らないうちに、わからないうちに、

 「結果として」、同じ方向、そのまま、あるまま、です。



 注意をとにかく、目の前です。

 これだけ言いたいんです。

 ********

ここより ただいま 

 

 とにかく 目の前  

 とにかく 目の前

 とにかく 目の前

「とにかく 目の前」

 も、すでに 目の前 の こと
 
 理屈なし・・・そのまま

 と 自分対自分になりつつも、
 
 同じ方向を保つようにしています。
2014.04.01 14:38
レッド
宇佐先生は人の目を見て話されないのでしょうか?講話でちらっとそんなようなことを仰っていた様に思うのですが。

私も人の目は極力見ないようにしてしまいます・・・。
相手に対して良い感情を持てなかったり、単純に怖かったりという理由です。
世間ではそれを良しとしないようですが宇佐先生のお考えは違うのでしょうか?

相手の目を見ない人をどう思いますか
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/1006/266931.htm?o=0
2014.04.04 00:32
ただいま
私も人の目を見て話すの苦手です。

幼少時の父への恐怖感があるからなのか、とも思っています。

しかし、仕事上、無理をして、目を見ながら話します。

その時、「目の前」です。

自分に何かある不安、恐怖、その心をそのままに、その人の目を見ながら話す時、

不識さんの言われる「目の前」向かってます。

宇佐先生のことは、分かりませんが、

自分にとって、必要にかられて、目を見ながら話すことは、

目の前向かうことと思います。

一般的にも、目を見ながら話すことは、必要と思います。

2014.04.04 08:53
ただいま様(04.01 14:38 )へ
>とにかく 目の前、「とにかく 目の前」
 も、すでに 目の前 の こと 理屈なし・・・そのまま

当ブログでは、「目の前」とカッコでくくっています。以前にお話ししたかもしれないが、「目の前」を実体として認められないということです。
「目の前」を認めると、それを認める「こちら」の「(これが)自分」が立つからです。(「こちら」も「あちら」もありませんが・・・)

そして客体化された「目の前」という見解を観察するようになり、「自分」と「目の前」の二つに対立することになるからです。
実体のない「自分」が立ちあがり、その虚構の「自分」に、「自分」が考え・見解をもって、注文して立派な「自分」に育て上げようとして、「自分」中心・「自分」目的で練習訓練するようになると、「自分」対「自分」の努力になり、面白くないのです。
「自分」・「自分の見解」を持ち運べば、事実そのもの・はたらきそのものから離れてしまうからです。

神経症に苦悩する方は、「内向き(「内」も「外」もありませんが・・・)」の熱心な努力に終始なさるため、そこから、結果として離れる方便として、「目の前」を申しております。

>自分対自分になりつつも、同じ方向を保つようにしています。

「自分対自分」「方向」「外向き」「今」も同様です。
そういう実体があるわけでなく、生活・行動のための方便です。
神経症の場合です。
結果として「自分」向き以外の生活に、熱心な努力がいくようにです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.04.06 15:12
ただいま様(04.04 08:53)へ
>私も人の目を見て話すの苦手です。幼少時の父への恐怖感があるからなのか、とも思っています。

そういう実体ない「自分」に対する、「分析」・「自己概念化」は不要です。
(ご自身に不要ということです。今回はコメント上やむをえませんが・・・)
そういう「言葉」(見えない縄)で「自縄自縛」しご自身で苦しめることは不要です。どうぞよろしくお願いします。


>仕事上、無理をして、目を見ながら話します。
>(不識の言う)「目の前」向かってます。

繰り返しですが、「目の前」というのは方便です。
この時は、仕事上の話をすることが第一です。

「目の前」に向かえた「自分」、「目」を見れたかどうかの「自分」が目的でありませんね。


>仕事上、無理をして、目を見ながら話します・・・
>自分に何かある不安、恐怖、その心をそのままに、その人の目を見ながら話す時、
(不識の言う)「目の前」向かってます。

これもそういう「分析」・「自己観察」不要です。(上記のように)
そして、
繰り返しで恐縮ですが、
「自分に何かある不安、恐怖、その心」を相手にして(=不変の固定的な実体あるものとして認識し)概念化し、その概念の中でそのままという考えを使って、二つに対立しながら作業することをするから 、、、「無理」(葛藤)をしてということになるのです。
「そのまま」は「無理」がなくいけるんです。「抵抗」がないので。

「縁」「状況」「必要」に応じて、ただ、「仕事」する。「目を見ながら話」する。
(「そのまま」にしようとする)「心」の中の作業省略して、手付かずです。

ただ、「仕事」すること、
即(イコール)、
「そのまま」が結果として成立しているんです。

合掌低頭、不識

2014.04.06 16:15
レッド様へ
>宇佐先生は人の目を見て話されないのでしょうか?講話でちらっとそんなようなことを仰っていた様に思うのですが。

その講話を聞いていないのですが・・・
相談者の診察の時も個人的に先生とお茶をいただいて話する時も、半眼が多かったですね。「全身」「耳」になって聴いておられるようでした。
特別にお聞きしたことはありませんが、・・・老師もそうでしたから、特別気にしたことはありませんでした。
相談者もその方が話しやすいのかもしれない。
それで、大事なところで、ちらっと、一瞬目を合わせる程度です。

>私も人の目は極力見ないようにしてしまいます・・・。
>相手に対して良い感情を持てなかったり、単純に怖かったりという理由です。

何かの確認ごとの時など、必要と思われる時は、現代の欧米化された「社会情勢」に合わせて、必要とあれば「目」を見るがよいでしょう。
「理由」は「理由」として、それはそれとして。そのまま。
「大事」なことは、コミュニケーション意志の疎通が目的です。
ですから、「目」が見れたかどうかの「自分」 が目的でない(「これが自分」という実体はありません・・・)ということです。
「関係性」において「目」が合わんでも、そうできたら、その場合は、それでいいということです。

>世間ではそれを良しとしないようですが宇佐先生のお考えは違うのでしょうか?

戦前の日本では、現在の欧米のように眼をよく見て話すことがなく、下の方やちょっとずれた方をみて、話すことで敬意を表していたようです。そして、大事な節目にちらっと一瞬目を合わせる程度です。1930年代ごろのアメリカの黒人社会でも同様だったと聞いたことがあります。
「文化」とか「社会状況」によって変動していくんですね。「無常」です。
「自分の見解」を中心におくのでなく、その場その時の「状況」に合わせるということが大事ですね。
ですから、「建前」が「本音」であるということを宇佐先生は言われます。

>「相手の目を見ない人をどう思いますかhttp://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/1006/266931.htm?o=0

拝見しました。ありがとうございました。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.04.06 16:23
レッド
ただいま様へ

レスありがとうございます。
必要に応じて相手の目を見るようにしてみます。
2014.04.06 17:23
レッド
不識様へ

お返事ありがとうございます。
宇佐先生は、要所で一瞬目を合わされるのみなのですね。
私も全く見れないというわけではないので、確認ごとの時など必要な場面では目を見ることを意識してみます。

目を見ることよりも意志の疎通が重要である点、納得しました。
これまで特にそういう問題を感じたことは無かったので、気にしすぎだったかもしれません。

相手の目を見て話さない人間は信用できないという意見もありますが、戦前の日本ではそれが当たり前だったんですね。そういう些細なことを気にしてたのですが、宇佐先生や不識さんの老師のような立派な方が、常には相手の目を見て話して居ないと聞きホッとしています。ただ相手の話に無心に耳を傾けるようにしてみます。

ありがとうございました。
2014.04.06 17:26
レッド様へ
ありがとうございました。不識
2014.04.20 18:51

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