「教え・理想」を先に掲げる「間違い」


「教え・理想の自分」を先に掲げて、そこに「自分」を作りかえるように持ち運ぶことは間違いです。
療法では、認知行動療法、禅で言えば、習禅です。
ですから、このブログで書かれたことを先に掲げて、そこを目指したら、「自分対自分」になり脱線するのです。
そうでなくて、事実に動かされるのです。

入院生活は、「教え・理想の自分」が先に掲げられてそれに「自分」をあてはめていくような間違いがないように、
いきなり、理から離れた、状況に応じた行ないが、もよおされます。

合掌低頭





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.11 2014 他の療法との違い comment24 trackback0

Comment

わや
 いつもお世話になってます。大事に読ませて頂きました。ありがとうございました。
2014.05.11 19:03
わや様へ
ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2014.05.11 19:37
rurumik
こんにちは。いつもありがとうございます。
この間、三省会報を読んでいて、(三省会事務局の方にお願いして、購入させて頂きました。)その中で、宇佐先生のお言葉で、「鬼は外」をもじって、「次は外」という言葉がありました。それ以来、よく、考えに行きそうになる時、「次は外」と浮かびます。そして、診察の時、宇佐先生が、「見るということは、瞬間的な全治です。」と仰っていたので、パッと、何かを見たりしています。
2014.05.12 16:15
rurumik様へ
>よく、考えに行きそうになる時、・・・

必要に応じて考えにいってさしつかえないです。
考えは、そういう機能・道具ですから、「悪い」わけではないんですね。
ただ、「自分」を認め、それに使う使い方は、よろしくないのです。
再確認してください。

>宇佐先生が、「見るということは、瞬間的な全治です。」と仰っていたので、パッと、何かを見たりしています。

これは、「教え・理想の自分」が先に掲げてそれに「自分」をあてはめていくようなことになりますね。
(ですから、「自分」というもの中心にして動いていくのでなく、事実に生活上の必要に動かされていってくださいというのです)

見るそのことより、「自分」がどうなのかが目的になっているでしょう。それは、「自分対自分」の内向き作業の枠内にとどまってしまうだけです。
そして、最後に、できたかどうかの「自分」をチェックして、せっかく努力しても、消耗し葛藤するでしょう。

しかし、
それを一所懸命やっているうちに、「自分」で「自分」に注文して、見ることに向かわせることから離れる、つまり、「自分対自分」の内向き作業から、おのずと、結果的に、離れるようになることもあります。それはいいです。
「空念仏」も一所懸命やっているうちに「本念仏」になるればいいです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識



2014.05.18 16:28
rurumik
不識様

いつもお返事を下さって、ありがとうございます。

>「自分」というもの中心にして動いていくのでなく、事実に生活上の必要に動かされていってくださいというのです

はい、教えて頂いて、頭ではわかっているつもりなのですが、実際の日常で、自分がどうやっているのか、いつもなんだかよくわからなくなってしまいます。

とにかく。。とりあえず。。一生懸命に、自分の生活をしていくようにします。

ありがとうございました。
2014.05.18 20:57
レッド
最近、思考抜きでは、神経症は成り立たないことに気付きました。この考えをどうするか?といつも苦しんで居ました。見ることは瞬間的な全治です、というお話、私も経験からそのように感じていました。見た瞬間、心が楽になるのです。楽になる=良い、苦しい=悪いとしてはいけないことは承知していますが、苦しいと自動的にその対策を考えてしまうように思います。そして考えではどうすることも出来ないという答えに行き着くのですが…。

>考えは、そういう機能・道具ですから、「悪い」わけではないんですね。
>ただ、「自分」を認め、それに使う使い方は、よろしくないのです。

ありがとうございます。以前より良く分かる気がします。
2014.05.18 21:06
rurumik様(5.18 20:57 )へ
>頭ではわかっているつもりなのですが・・・

おわかりでないようです。
もし、わからなければ何度でも質問してください。

しかし、
わかってもわからんでも、同じ事です。

>懸命に、自分の生活・・・

わかってもわからんでも、
おっしゃるように、一所懸命にやって、
最後に、
「自分」をチェックしないでください。
「自分」を相手にして考えない。
(例えば生活の工夫を考えるように、「外」向きに考えを使う)

生活を一所懸命にやってやりっぱなし。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.05.18 22:05
レッド様へ
>思考抜きでは、神経症は成り立たないことに気付きました。

ですから、「これが自分」という思考=実際と認めて、そこに思考を用いることは、実際から外れた虚構の中の、何もならない無駄な作業とわかるでしょう。


>この考えをどうするか?といつも苦しんで居ました。

「この考え」をそのままほっておく。
「この考えをどうするか?」という考えもほっておく。
要するに、手をつけない、そのまま。

そもそも、
「考えをどうするか」以前に、
考えは次の考えが出てきたら、自動的になくなってしまうのです。
次の考えが出てくるには、前の考えがなくならないと出てこれないからです。

ですから、
どんな考えもコントロール不要 。
いちいち、コントロールする手間が省けていいでしょう。

「心」に用事なし(用事する「心」なし)。

>見ることは瞬間的な全治です、というお話、私 も経験からそのように感じていました。
>見た瞬間、心が楽になるのです。

その時、「自分」対「自分」の内向き作業(葛藤)から、離れるからです。

もし・・・
次に、
また「内」向き作業再開すれば(「内」も「外」もありませんが)、瞬間的に、神経症的な苦悩が始まることの再起動です。

そのように、24時間神経症ではなく、神経症スイッチのオンとオフを繰り返しています。

>楽になる=良い、苦しい=悪いとしてはいけないことは承知していますが、苦しいと自動的にその対策を考えてしまうように思います。

「苦しいと自動的にその対策を考え」が出てきたら、
それも
出しっぱなし。

>そして考えではどうすることも出来ないという答えに行き着くのですが…。

どんな答えもそのまま。

ただ、
(「ただ」も、「そのまま」もなく)事実に動かされて行ったら良いです。
そして、生活の必要にもよおされて、生活していったらよいです。

そういうはたらきそのものになって、・・・
ふと、・・・結果として、・・・「これが神経症の自分だ」という「自分」を忘れ去って、忘れたことも忘れるのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2014.05.18 22:10
レッド
不識様

お返事ありがとうございます。

>ですから、「これが自分」という思考=実際と認めて、そこに思考を用いることは、実際から外れた虚構の中の、何もならない無駄な作業とわかるでしょう。

そうですね。雲は通り過ぎているのに、写真で捉えた姿を問題視して、何とかこの写真に写る雲を変えられないだろうかとやるような物ですね。


>考えは次の考えが出てきたら、自動的になくなってしまうのです。

まだ実感としては分かりませんが、覚えておきます。

>「この考えをどうするか?」という考えもほっておく。
要するに、手をつけない、そのまま。

苦しい時は苦しいままに考えの世界を後にします。具体的には神経症へ向けていた注意を、他の物事へ振り向けるということです。これが簡単なようで大変なのですが、ポイントはどんな症状も考えもそのままあって良いということだと思います。心に用事なし。

>「内」も「外」もありませんが

こちらの表現度々出てくるのですが、良くわかりません。

>そのように、24時間神経症ではなく、神経症スイッチのオンとオフを繰り返しています。

ここは納得できるようになりました。

>そして、生活の必要にもよおされて、生活していったらよいです。

こんな自分が生活していって何になるのだろうと思っていましたが、そもそもこんな自分というのが居ないんですよね。
その場の働きがあるだけで。まだこれは知識だけの理解ですが。

>・・・結果として、・・・「これが神経症の自分だ」という「自分」を忘れ去って、忘れたことも忘れるのです。

この境地を目指すのではなくて、あくまでもおまけみたいな物ですね。ありがとうございました。
2014.05.19 13:34
レッド様へ
>そうですね。雲は通り過ぎているのに、写真で捉えた姿を問題視して、何とかこの写真に写る雲を変えられないだろうかとやるような物ですね。

そうです。

>>考えは次の考えが出てきたら、自動的になくなってしまうのです。

眼で言えば、前のものが残っていたら、次のものが映る時、重なって見えて、一日の終わりには真っ黒になるはずでしょう。それと同様です。

>>「この考えをどうするか?」という考えもほっておく。要するに、手をつけない、そのまま。
>苦しい時は苦しいままに考えの世界を後にします。具体的には神経症へ向けていた注意を、他の物事へ振り向けるということです。これが簡単なようで大変なのですが、ポイントはどんな症状も考えもそのままあって良いということだと思います。心に用事なし。

注意を、他の物事へ振り向けるという作業を「私」がするのでなく、
「外」向き「眼前」に手を出したら、(「外」向き「眼前」もありませんが・・・)
おのずと、注意を、他の物事へ振り向くのです。
ですから、振り向けるという作業をするのでないから簡単です。

ポイントは、「心」に注目したことでなく、「外」向きの用事です。


>>「内」も「外」もありませんが
>こちらの表現度々出てくるのですが、良く わかりません。

わかりやすく、そう(「内」「外」と)表現しているので、
「自分」というものが、実際にはないから、(「自分」の)「内」がありません。
「内」がなければ、(「内」があることによって「外」があるといえる)「外」もありません。



>>そして、生活の必要にもよおされて、生活していったらよいです。
>こんな自分が生活していって何になるのだろうと思っていましたが、そもそもこんな自分というのが居ないんですよね。
その場の働きがあるだけで。

「このもの」「身心」は、このように、ありながらない。ないながらある。
それに、レッドという名をつけることによって、変化しない固定的なかたまりがあるように思えてしまうのですが、それは、虚構だということです。
変化しているからこれだと決めることが、できない。つかむことができない。という意で、「ない」というのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.05.25 16:26
レッド
不識様

>眼で言えば、前のものが残っていたら、次のものが映る時、重なって見えて、一日の終わりには真っ黒になるはずでしょう。それと同様です。

良くわかりました。ありがとうございます。

>ポイントは、「心」に注目したことでなく、「外」向きの用事です。

分かりました。

>わかりやすく、そう(「内」「外」と)表現しているので、
「自分」というものが、実際にはないから、(「自分」の)「内」がありません。
「内」がなければ、(「内」があることによって「外」があるといえる)「外」もありません。

思考は自分の内側で行われているように感じます。でも説明上は理解できました(と思います)。

>変化しているからこれだと決めることが、できない。つかむことができない。という意で、「ない」というのです。

何となく分かりました。心は変化しているから、これが自分の心ですという事ができないし、肉体も新陳代謝で細胞が入れ替わっているし、加齢もしていくし、変化していますね。
2014.05.30 13:08
レッド様へ
>わかりました。

わかることを目標にしているわけではないのです。
ただそっちは遠回りだよということを知るぐらいのものです。

わかること=わからないことです。
考えの世界を左右しているだけ。
あるいは、「わかったフォルダ」「わからなかったフォルダ」に整理されているだけで、PC画面上を左右しているだけ。

わかること(分かること)は、隔て・距離ができて、はじめて認知できます。
そのものとひとつになっておる事実(「即今」と呼ぶ瞬間)から分かる(分けられる)ということです。

(「道理」のようなものが)わかったら、そこから離れてください。そのわかったことを先に掲げて「自分」をそこに合わせていくようにしない。
「自分」をわかることから離れる。
つまり、・・・
ただ、(もよおされて)生活していく。
(「ただ、もよおされて生活していく」ということも忘れて)

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.06.02 00:31
レッド
不識様、お返事ありがとうございます。

>わかること=わからないことです。

分かることが分からないことより価値があるというわけではないのですね。

>わかること(分かること)は、隔て・距離ができて、はじめて認知できます。

同様に分からないときは、分からないことが分かっているのですね。

>「道理」のようなものが)わかったら、そこから離れてください。その>わかったことを先に掲げて「自分」をそこに合わせていくようにしない。

ただいま様へのコメントにあった『「一所懸命」ということを先に掲げない、「一所懸命」ということを忘れているということが一所懸命です。 』ということですね。

>ただ、(もよおされて)生活していく。

私は、人間として正しく生きていかないといけないという想いが強く、でもそういう風には生きられず、自分を責めて来たこともあったのですが、もよおされて生活するとは、正義を実行することとは違うのでしょうか?そもそも私が考えていることが正義なのか、自信ないのですが。

私の今の生活は自分と家族の為にとりあえず必要なことをやっている程度です。神経症で他人より遅れた分を挽回しなければいけないのではないか?とも思うのですが、余りに膨大な時間を失ったので、現実的に不可能に思います。
2014.06.06 22:53
レッド様へ
>>わかること=わからないことです。
>分かることが分からないことより価値があるというわけではないのですね。

「分かる」・「分からない」・「価値がある」・「価値がない」も考えの世界にあるということで同等ということです。
「事実」「今」の世界はそういう考えが出る一歩前です。

「わかる」ことで事実から(へだてができ)離れてしまうのです。

>>わかること(分かること)は、隔て・距離ができて、はじめて認知できます。
>同様に分からないときは、分からないことが分かっているのですね。

それもそうですが、老師や先生がいう「わからない」は、多くの場合、「わかる・わからない」の二元以前を言うことが多いようです。つまり、このようにあるまま(へだてがなく)ひとつ(「ひとつ」もないのですが)をいいます。
認知できた時、「対象」を認めるから、二つ(に分かれる)ということです。

>>「道理」のようなものが)わかったら、そこから離れてください。そのわかったことを先に掲げて「自分」をそこに合わせていくようにしない。
>ただいま様へのコメントにあった『「一所懸命」ということを先に掲げない、「一所懸命」ということを忘れているということが一所懸命です。 』ということですね。

そうです。

>私は、人間として正しく生きていかないといけないという想いが強く、でもそういう風には生きられず、自分を責めて来たこともあったのですが、

「正しく生きていかないといけないという自分」目的でなく、
(「自分」を棚上げし)行動そのものになるのです。

>もよおされて生活するとは、正義を実行することとは違うのでしょうか?

「私」の考えを先に立ててそこに「自分」を持ち運んでいくというより、「事実」に従って臨機応変の前意識的行動がなされていくようなことです。

>そもそも私が考えていることが正義なのか、自信ないのですが。

親鸞上人は「義なきを義とす」と言われた。参照してください。

>私の今の生活は自分と家族の為にとりあえず必要なことをやっている程度です。

たいへん立派なことです。

>神経症で他人より遅れた分を挽回しなければいけないのではないか?とも思うのですが、余りに膨大な時間を失ったので、現実的に不可能に思います。

比較する「他」を認めることができない。「他人」と概念化するから、それが、何か固定的なかたまりのようなものがあるように、不変の中心・芯があるように思えるのです。常に行雲のごとく変動していてつかめない。つかめないから、比較しようがないです。

さて、失う「自分」・得る「自分」はありますか?

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.06.08 22:18
レッド
不識様 

ご回答ありがとうございました。
もうしばらく考えてみます。また次回(いつになるか分かりませんが)質問させて下さい。
2014.06.15 12:02
レッド様へ
>しばらく考えてみます。

考えの果てには「全治」はありません。
考えの中で「わかった・わからない」は同じことです。
「わかったこと」は、体得したこととは違うのです。

>余りに膨大な時間を失った

「得るものも失うもの」もないです。

毎回、その場その時、始まって終わるんです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.06.16 20:35
レッド
不識様

お返事ありがとうございます。

>さて、失う「自分」・得る「自分」はありますか?

これ、分かったような気がしたんです。無いなって。自分があると思っている、それは考えに過ぎないと。しかし、そう気づいた途端に、本当に分かったの?分かったって言ってしまって良いの?とまた次の考えが出てきました。ということはやはり分かって居なかったのでしょうか?

>「わかったこと」は、体得したこととは違うのです。

体得するように頑張ります。

>毎回、その場その時、始まって終わるんです。

この言葉に救われました。いつもどうしようもない苦しみと戦ってしまうのですが、戦う必要は無いのでしょうね。


2014.06.16 22:46
レッド
いつも頭が混乱していて、自分は何を書き込んでいるんだろう?と思う時が良くあります。読み返しても、不要なことを書いてるような気がするのですが、どこがどう不要なのかはっきりと分かりません。

ただ、、
>考えの中で「わかった・わからない」は同じことです。

ここは了解しました。

>「得るものも失うもの」もないです。
>毎回、その場その時、始まって終わるんです。

ここの部分はまだ実感として薄いようです。
2014.06.21 01:32
レッド様(6.16)へ
>>失う「自分」・得る「自分」はありますか?
>これ、分かったような気がしたんです。無いなって。自分があると思っている、それは考えに過ぎないと。しかし、そう気づいた途端に、本当に分かったの?分かったって言ってしまって良いの?とまた次の考えが出てきました。ということはやはり分かって居なかったのでしょうか?

考えの世界でやりくりした結果は事実そのものとは違うのです。
ですから、考えの上で「自分」がないと「わかったこと」は、体得したこととは違うのです。
「これが自分だ」と認識された「自分」という概念から、結果として、離れてしまえばよいんです。
実は、日常生活、気づけば、そうなんです。
ただ、「自分」を忘じた後に気づくか気づかないかだけです。

>>毎回、その場その時、始まって終わるんです。
>いつもどうしようもない苦しみと戦ってしまうのですが、戦う必要は無いのでしょうね。

本当は戦えないのです。
「苦しみ」という概念を実物と勘違いして、考えの中であれこれしているんです。
そういう、「自分」をこうしたいああしたい「自分」目的の内面の作業(虚構の作業、「自分」対「自分」の戦い・・・本当は戦えない)は労多くて功なし。
ただ、「眼前」「外」(「眼前」・「外」という実体もないですが)の作業・活動・生活です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.06.23 14:58
レッド様(6.21)へ
>いつも頭が混乱していて、・・・

その時はそうだったんです。
それだけ。
「混乱」と認知した時、その状態はもう過ぎ去ってしまっているのです。

このように「自分はいつも・・・」というふうに、言葉でくくらないことをおすすめします。
「自分」を言葉でくくると、いつも「自分はこうだ」と「自分で自分を縛りつけてしまう」ことになるんです。


>>「得るものも失うもの」もないです。 毎回、その場その時、始まって終わるんです。
>ここの部分はまだ実感として薄いようです。

不変の、固定した、かたまりのようなものでない。
常なるものがないということです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.06.23 15:04
レッド
不識様

お返事ありがとうございます。

>「これが自分だ」と認識された「自分」という概念から、結果として、離れてしまえばよいんです。

「これが自分だ」を認知している自分って一体何なのだろう?と最近ふと思うようになりました。これが自分という対象とそれを認知する側、距離が有りますよね?(不識様の説明で距離があるから認知出来るんです、という部分、自分はここだけはとても納得出来ました)ならば対象によって自分は苦しむ必要はないのではないかと思いました。

>ただ、「自分」を忘じた後に気づくか気づかないかだけです。

「自分」を忘じるとはどのような体験ですか?

>>いつもどうしようもない苦しみと戦ってしまうのですが、戦う必要は無いのでしょうね。
>本当は戦えないのです。
「苦しみ」という概念を実物と勘違いして、考えの中であれこれしているんです。

はい、どうやら分かったみたいです。ありがとうございました。
2014.06.26 23:42
レッド様へ
>>「これが自分だ」と認識された「自分」という概念から、結果として、離れてしまえばよいんです。
>「これが自分だ」を認知している自分っ て一体何なのだろう?と最近ふと思うようになりました。これが自分という対象とそれを認知する側、距離が有りますよね?(不識様の説明で距離があるから認 知出来るんです、という部分、自分はここだけはとても納得出来ました)ならば対象によって自分は苦しむ必要はないのではないかと思いました。

本当は苦しめないのです。「自分」という概念を実物と勘違いして、考えの中であれこれしているんです。
赤ちゃんは、「自分」という概念がないから「自分」を相手できず苦しむことができないんです。

>>ただ、「自分」を忘じた後に気づくか気づかないかだけです。
>「自分」を忘じるとはどのような体験ですか?

六根のはたらきそのものにありきるということです。
その結果、そういえば、治すべき「神経症である自分」を忘れていたなぁということです。

>>いつもどうしようもない苦しみと戦ってしまうのですが、戦う必要は無いのでしょうね。 本当は戦えないのです。「苦しみ」という概念を実物と勘違いして、考えの中であれこれしているんです。
>はい、どうやら分かったみたいです。ありがとうございました。

繰り返しですが、
わかったらそれから離れてください。
宇佐先生の言われたこと・わかったことを、「自分」を対象にして、その「自分」に応用しないようにしてください。
「自分対自分」の努力になります。

何度も申すように、
ただ、
生活。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.06.30 18:27
レッド
不識様

ご回答ありがとうございました。
2014.07.04 19:32
レッド様へ
ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2014.07.06 13:25

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