十劫

大通智勝仏という方が十劫という長い間、坐禅したが成仏できなかった話があります。
それはなぜか?
「今」の状態のほかに「悟り(の自分)」を求め、「坐禅」を手段方法につかったからです。
坐禅そのもの(実生活)がすでに「悟り」(療法として言えば「全治」)であるのです。

すでにそうである(自忘して実証する要がありますが)ところに、
余計なこと(病気と認識し治そうする)をして、
みずから、苦しめているのです。

合掌低頭






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.15 2014 全治 comment10 trackback0

Comment

とも
不識様

不識様のおっしゃる、
「すでにそうであるところ」とは、
このブログに書かれている、「非思量」ということと、同じでしょうか。
http://kkr117.blog104.fc2.com/blog-entry-380.html
2014.09.21 00:55
とも様へ
http://kkr117.blog104.fc2.com/blog-entry-380.htmlを拝見しました。
(以下引用)

>・・・「”考える以前にある世界”とは一体何のことか? それは ”いま・ここ(=非思量)”のことである。 ”いま・ここ”を知ることが坐禅の要である。」・・・


「すでにそうであるところ」・”いま・ここ”もないのです。
「非思量」と仮に呼んでいるのは、「”いま・ここ”を知ること」以前です。
「非○」とは、悟りの代名詞と言われます。
「○」であるに属さない「○」でないに属さないということ。
言葉で言うと難しく聞こえますが、なんのことはない、
このようにあるとおり(「このようにあるとおり」以前)。

蛇足ですが、
http://kkr117.blog104.fc2.com/blog-entry-380.html
にあるセロトニン瞑想のようなことはお勧めしません。
(以下引用)

>・・・「私たちは、外界とは関わりなく「イメージの力」を使って、自分をゆったり温かくリラックスさせてくれる感情や、自分をウキウキ・ワクワクさせてくれる感情を、自分の中に生み出すこともできるからです。これからお話しするのは皆さん自身に備わる「イメージする力」を使って、皆さんの感情世界を健全に保つ、という方法です。」・・・



「心に良し悪しなし」(良し悪し問う「心」なし)
「心に用事なし」(手を加える「心」なし)
のとおりです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2014.09.21 13:07
とも
不識様

いつも、ご丁寧にご返信ありがとうございます。

>「非思量」と仮に呼んでいるのは、「”いま・ここ”を知ること」以前です。

ということですが、
これは、外の世界を知覚して、
心の中に思いが湧き上がってくる前、
外の世界と、内の世界の間に、言語の垣根が無い状態ということでしょうか。
2014.09.22 14:55
とも様へ
>・・・心の中に思いが湧き上がってくる前・・・、言語の垣根が無い状態ということでしょうか。

そうです。
思量する思量しないを離れていること。

「外の世界を知覚して」ということの認識が、「今」と呼ぶその時、できないのです。
その後、気づくのです。
認識は「距離・隔たり」があって成り立つからです。

「外の世界」、「内の世界」という分別は、「これが自分だ」という虚構の「土台」を不変のものとして認識していることから、はじまります。


「外の世界」、「内の世界」も忘れるほどに、一所懸命に「眼前」の「事実」に動かされるようにできているのですから、動かされるまま、「生活」してください。(「外の世界」「内の世界」「眼前」「事実」「生活」もありませんが・・・)

「生活」と呼ぶも「修行」「坐禅」と呼ぶも同じことです。
生活それ自体そのものの最中には「生活」(という概念・観念)はありません。
「生活」と同時にそれ自体「全治」(とカルテ上やむなくそのように呼ぶ状態)の現前です。
認識は距離隔たりがあって成り立つので、その最中には「神経症」から脱していると認識できないのです。
(観察もできないのですが、「自分」で「自分」を観察したつもりで「治った治らん」いってるそんなんでなく・・・)わからないから、それは「全治」といえるのです。それが「本当」です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.09.22 20:44
とも
不識様

返信ありがとうございます。

>認識は「距離・隔たり」があって成り立つからです。

この「距離・隔たり」になるものが、
「言葉」であり、言葉によって作られる「概念」ということなのですね。
「事実そのもの」と認識によって作り上げた「概念」とは、
まったくの別物だと。

ふと思いついたのですが、
本来私たちは、事実そのものに自動的にチューニングされている状態なのに、
そこに概念を差し挟むことによって、ノイズが発生してしまっているようなものなのでしょうか。

>一所懸命に「眼前」の「事実」に動かされるようにできているのですから、動かされるまま、「生活」してください。

この場合、行動の動機になるものは、「眼前の事実」であり、
自分勝手に頭の中に作り上げた概念、
例えば、「理想的な自分像」になることを動機にしないように気を付けるということでよろしいでしょうか。
2014.09.23 12:51
とも様へ
>認識は「距離・隔たり」があって成り立つ・・・

さらにいうと、「時」です。
繰り返しますが「今」と呼ばれるその瞬時、「今」と知らないのです。
「今」と対象化し認識した時、それは、もう過ぎてしまっています。
観念の中で「今」、「不安」、「安心」など取り扱っているつもりになっています。
実際は認識された時それらは過ぎ去ってるんです。
今・それの時はそのまま・「一体」ですので、認識できない、わからない(分けられない)わけです。
「眼が眼をみることがない」ように。

>事実そのものと「概念」・・・

事実そのもの と認識によって作り上げた「概念」とは違うということですね。

このように「このもの」は中心がないまま「縁」によって活動し続け止まらないから、「これが私だ」という概念でくくることができないのです。(「これが私だ」という固定的な中心ができない)
形を変えながら空ゆく雲を、写真撮って、実物さしおいて、「これが雲だ」といいきれないように。

>事実そのもの・・・ノイズ・・・

面白い例えですね。
さらに言うと、チューニングされている音もノイズと呼ばれる音も、事実で「良し悪し」がないんです。
「良し悪し」を付けるのが、「これが私だ」という「私的な中心」から見た、いわゆる「我見」です。

この例でいうと、音 そのものより言葉に変換された概念化された「良い音」、「悪い音」に注意する時、(意識は同時に二つに注意できませんので)音という事実より「概念」に注意が向き、とらわれることがあります。

「概念」=その「事実」と勘違いしているからです。
ですから、
実際を見てください触ってくださいということです。


>行動の動機・・・

「理想的な自分像」「行動の動機」「眼前の事実」、、、「これが私」「神経症」「全治」「宇佐療法」、、、「禅」「仏法」
などは、頭の中に作り上げた(説明)概念です。

こうしていると、ふと、鳥の声 が聞こえたとします。
「私」が聞こうとする前に、「動機」持ち出す前、「私」という介在以前に聞こえたんでしょう。
そういう活動するようにできているんです。
そういうそのままに従って行く。
ひらたく言うと、一所懸命です。(いろいろな状況に応じて、「周囲」への配慮もでてくるとおもいますが)

そういう「生活三昧」の後、ふと気付くことがあるんです。
そういえば、「治そうとしていた私」がなかったことが。

「やった、治りました」・・・「治った治らない」を問うそういう「これが私」の「私」自体もとからないんだよということです。
社会生活上、便宜的につかっていた、「私」「A」さんという「概念」「名札」は事実そのものではないんです。

そういう「私」という中心がないまま、「縁」によって、状況と一如に、活動していく素晴らしい「作用」です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.09.23 19:20
とも
不識様

ありがとうございます。

何度も何度も繰り返し仰ってくださっていること、
徐々に腑に落ちてきているようです。
ただ、このような、腑に落ちる、腑に落ちないということも、
現実とは離れた、観念の上のことだということなんですね。

私が今、読んでいる本の中に、
「人は”木”というものを見たことがない」という言葉がありました。
最初は、「え?」と思ったのですが、
”木”というものは、抽象概念に過ぎないということでした。

桜の木、イチョウの木などは、
実際に見たり、触れたりできるけれど、
”木”は、実際には見たり、触れたりできない、抽象概念なんですね。
それと同様に、”私”というものも、抽象概念なんですね。
そう考えますと、”私”というものは、
幽体離脱し、捉えどころのない、ふらふらと漂っている魂みたいなものでしょうか(笑)。

そしてまた、
「全治」、「目の前」というのもただの抽象概念であり、
神経症の人は、実際を離れた、抽象概念の世界で、ただ苦しんでいるだけなのですね。


>意識は同時に二つに注意できません

面白いですね。
人は抽象概念の世界で遊ぶこともできるし、現実の世界を五感で感じることもできる。
けれども、意識は抽象概念の世界と、現実の世界を両方同時に体験することができないんですね!
だからこそ、実際を見て、触っているときには、
概念の世界の病である神経症は成り立たないということなんですね。

でも、意識が概念の世界で遊んでいるときでも、
無意識は、現実の世界を認識しているのではないかと思いました。
今日は、車を運転しているとき、
意識は概念の世界で遊んでいても、
無意識は信号を認識し、車間距離を適正に保っていると感じました。
2014.09.24 22:10
とも様へ
>車を運転しているとき、意識は概念の世界で遊んでいても、無意識は信号を認識し、車間距離を適正に保っていると感じました。

それは、あまりにも、超スピードで意識が転換するため同時に思えるのです。
1刹那と呼ばれる間、500回ほど変化するほどと言われています。



>実際を見て、触っているときには、概念の世界の病である神経症は成り立たないということなんですね。

そうです。同時に二つに注意できないからそう言えるんです。

しかし、「自分」という土台を認識した上、わかったというところに腰をかけないことです。


「生活」即「全治」。これからは、どんな思いが出てこようと、そのまま、生活です。
息をしている時は「息」をしていると知らない。生活をしている時は「生活」を知らない。
そのようにそのまま。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.09.29 17:55
とも
不識様

ありがとうございます。

>1刹那と呼ばれる間、500回ほど変化するほどと言われています。

そうなんですか!
ちょっと、びっくりです。
それでは、同時に思えるのも当然かもしれませんね。

>これからは、どんな思いが出てこようと、そのまま、生活です。

はい。思いに引きずられないよう、そのままにして、生活していきます。

ありがとうございました。


2014.10.03 23:52
とも様へ
くどいようですが、・・・

>思いに引きずられないよう、、、生活していきます。

「思いに引きずられる時は思いに引きずられる」という「法」のまま、生活。

どういうことか?

事実に動かされ、生活に手が出たら、
その瞬時、
否応なしに「思いに引きずられる時は思いに引きずられる」から知らずに離れてしまうのです。


>思いに引きずられないよう、そのままにして、生活していきます。

何回も申し上げますが、「そのままにして」という、「心の用事」なしで、「自分」に用なしの、生活してください。
「生活」も忘れて生活。
つまり、
「自分」を立ち上げて、「自分」の方から、「自分」をもち運んで、
「そのままにして、生活」という考えもっていくなら、「そのまま」じゃないんです。

「自分」に考えをもって工夫すると「自分」対「自分」の工夫に終始してしまうのです。

「自分」をもちいて、「自分」をどうこうしようとするまえに、すでに、「縁」によって活動するようにできているんです。
鳥が鳴けば、聞こうとしなくとも聞こえるように。そういう素晴らしい作用に動かされていくにまかせたままです。

(「生活上の必要」「状況」に相応 して、「考えという道具」を「外」に使うことはかまいません。)
そういう作用に動かされていくことを仮に「祗管打坐」と呼んだのです。

そう動かされていくと「私」「見解」が知らずに落ちてしまっていたと気づく時があるんです。
(そう動かされていく時、即、「私」は忘れられてないのですが、それはその最中は、わからないのです)

問題をおこしている「私」がない時、もともとの問題も何もない(「迷い」もない「悟り」もない)事実がこうあるだけです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.10.06 19:11

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