「安心」・「不安」を同時解決


「治し方というものから全く離れた生活がすべてでありまして、そこには不安が問題にならないだけでなく安心も問題にならないんですね。安心と不安を同時に解決できるというのがまたこの療法の良い特色です。それは、ひいては生死の問題が同時に解決されるんですね。世間では治ってないこと、つまり、神経症とか死の問題というのが当面の課題としてその解決にどなたも熱心ですが、安心とか治っていることとか生きていること、あるいは悲しみに対する喜びといったようなものを解決しようとしないために、そこに禍根を残すんですね。つまり、皆さん方にしてみれば治したい一心で治った状態というものを目指されますが、治った状 態というものの描かれた場所では到底治らないんです。安心も解決しなければなりません。ちょっと言い回しが変わっておりますが、それはもう何のことは無い、どちらも言葉に出す前のところで見事に解決がつきます。」
(宇佐晋一講話より)

同様に、「癒し」「リラックス」を求め、そこに腰をかけると「禍根」を残すことになります。
合掌低頭




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.27 2014 他の療法との違い comment8 trackback0

Comment

kugla
不識様

初めての書き込み失礼いたします。
貴ブログの内容には親しみを感じ以前から拝見しておりました。
ありがとうございます。

すでにご存じかもしれませんが…。
三聖病院は今年の12月27日をもって閉院されることが、今月初めに決定されました。
建物も来年の3月までにはなくなってしまうようです。

言葉によらない、実証体得を重んじた入院森田療法を現在まで伝えてきた唯一とも言える病院がなくなることは、誠に残念です。
宇佐先生のこれまでのご尽力を思うと、頭が下がるばかりです。
2014.10.27 00:11
kugla様へ
はじめまして。三聖病院体験された方ですか。

関係者からの報告で、病院の前に12月27日で閉院の看板があったことを聞いております。

コメントありがとうございます。
合掌低頭、不識
2014.10.27 00:37
rurumik
不識さん
rurumikブログ、宇佐先生のお話5〜12に、コメントありがとうございました。
いつもありがとうございます。
病院の閉院、とても残念です。。
2014.10.27 16:41
ひょうたん小僧
いつも読ませてもらっています。
この宇佐先生のコメントについて少し教えてください。

>世間では治ってないこと、つまり、神経症とか死の問題というのが当面の課題としてその解決にどなたも熱心ですが、安心とか治っていることとか生きていること、あるいは悲しみに対する喜びといったようなものを解決しようとしないために、そこに禍根を残すんですね。

分かるような分からないような・・・です。神経質な人は、前半の部分が気になる。それはよくわかります。後半の部分ですが、「実は安心と不安はコインの裏表だから、片方だけ解決してもダメ。」これだけなら分かるのですが、では具体的に安心とか喜びを解決するってどうやって?どういうことか?と考えたら、よく分かりません。
不安も安心も浮かんでくるまま放っておいて、解決云々とは無縁のことだよということでしょうか?


>つまり、皆さん方にしてみれば治したい一心で治った状態というものを目指されますが、治った状 態というものの描かれた場所では到底治らないんです。安心も解決しなければなりません。

これは、治った状態、治らない状態、そのどちらもないということでしょうか?そのようなことが、思い浮かんだり、ちょっと考えてしまったりするのは、仕方ないけど、「そこから抜け出ようとしたり、治った状態を目標とする」のはおかしいよということなのかなあ?私は、治った状態を目標するような強い意識はありませんが、どうしても自分に目が向かってしまい、「うまくやれるかやれないか」「自己満足できるかどうか」と自分を試してしまうことが多く、そこからなかなか抜けられません。
2014.10.31 21:42
rurumik様へ
コメントありがとうございました。
合掌低頭、不識
2014.11.03 17:09
ひょうたん小僧様へ
>どういうことか?と考えたら、よく分かりません。

考えで解決しようとしないことです。
考えで解決しようとしたから、精神的に苦悩したということは体験してらっしゃるとおりです。

「苦悩」は「考え・言葉」なしに成立しないのです。
赤ちゃんは、「生」「死」「・・・の自分」という「言葉・概念」を持たないので悩むことができません。

>不安も安心も浮かんでくるまま放っておいて、、

そうですね。

「不安」「安心」というように概念に置き換えない時、「不安」「安心」というように概念に置き換える前のそういう状態のまま「一如」です。

「安心」という言葉をもって概念に置き換える時、「安心」「それを求める自分」が、間に「へだて」が認識され、「ふたつ」に分かれてしまう。
そして、
そのナマの事実ではない「概念」に向かって求め工夫することで、事実から離れた「考えの世界」を左から右へ行ったり来たりして、「安心」~「不安」~「安心」~「不安」・・・と輪廻し、振り回されるのです。(多くの療法は不安を排除し安心を残そうとするのです)

「考え」より先に事実があります。
事実だけでしたら、何も苦悩がないのです。
赤ちゃんのように。

「自分流の見方」「我見」は、それはそれとしてさておきですよ。
「わかる・わからない」に関わらず、
「治る・治らない」に関わらず、
「迷い・悟り」に関わらず、
この「身心」は、
知らずに、そのようにある(「考え」より先にあるようにある)事実に生活してあるんですから、そのとおりいったらよろしいです。

>「そこから抜け出ようとしたり、治った状態を目標とする」のはおかしいよということなのかなあ?

「そこから抜け出ようとしたり、治った状態を目標とする」から今の「苦悩」を作り出しておることは、体験してらっしゃるとおりです。
「治る・治らない」の二元相対虚構世界を行ったり来たり、「治そう」とすることで「神経症」的苦悩を作り出しているのです。

>どうしても自分に目が向かってしまい、「うまくやれるかやれないか」「自己満足できるかどうか」と自分を試してしまうことが多く、、、

繰り返し申すとおり、「こういう自分だ」と概念化しないことです。
「概念」「観念」=事実として錯覚して、それに振り回されるから。

自分の顔が直に見れないように「自分に向かってしまう」ことは事実ありえません。

>そこからなかなか抜けられません。

「抜けよう」とすることを目的にしないことです。
つまり、「自分」目的でない、「外」事、生活目的です。
「・・・の自分」になることを目的にするから、収拾がつかなくなるのです。
まるで、納豆の糸を切ろうと納豆の中で箸をどんなに動かしてもきりがないようなもんです。

何のことはない。
いつも申すように、「外」に動かされ「外」に用事したらよいだけ。
本人が知らないうちに、「自分」からに目が離れてしまいます。
意識は同時に二つに向かないから。

以上の説明、、、
を全部お忘れになって、
「外」「状況」に動かされてあるまま、いけばよいです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.11.03 17:47
ひょうたん小僧
不識さん、丁寧なコメントありがとうございました。

最後の  「・・・以上の説明を全部お忘れになって・・・」
合点がいきました。

しかし、そう感じる自分も忘れて
外に向かう 外に動かされるまま 日々過ごしてみます。


2014.11.03 21:21
ひょうたん小僧様へ
よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2014.11.10 20:46

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