「事実そのもの」と「観念」

釈尊の6年の苦行は、「考え」をもって「自分」という「中心」が「ある」として認識し、その「考え」の上で「名札」としての「自分」をこうしようああしようとし尽くしてダメだったんです。
おのずから、「考え」の中での(「自分」対「自分」の)工夫が止んだのでしょう。
「考え」「名札」以前の世界だけに浸りきっていたところ(「事実そのもの」にあるまま)、
「問題」がなかった。

「考え」「名札」以前のあるままの状態(「中心」・「土台」がなく、「因」「縁」によって出て、消える)と、「事実」という「名札」で概念化・固定化される「考え」とは別だったんです。
つまり、
「事実そのもの」と「観念」は別だった。(どちらも「法」ではあるものの)

ところが、
「言葉」「考え」に置き換えられた固定した「観念」「概念」「情報」を(すぐに色が変わるような)ナマの事実の状態と錯覚し、それを不変の「固定したもの」として、「考え」をもって手を付け、振り回され、苦悩していたのです。
言い換えれば、
「事実そのもの」から離れた、情報化された「考え」の中で、もと「問題」ないところに「問題」をつくり苦悩していた。

「考え」をもって手を付ける以前、こうしようああしようとしないですむようすでにできてある、そのまま、生活。

合掌低頭



スポンサーサイト
.08 2014 あるがまま・如如 comment20 trackback0

Comment

ことぶき
>釈尊の6年の苦行は、「考え」をもって「自分」という「中心」が「ある」として認識し、その「考え」の上で「名札」としての「自分」をこうしようああしようとし尽くしてダメだったんです。
おのずから、「考え」の中での(「自分」対「自分」の)工夫が止んだのでしょう。

6年の苦行が釈尊でさえ必要だったわけですね。
不識様は今、不識様がされているような質疑応答だけで・・・
「事実そのもの」に落ち着くことができたのでしょうか?
すでにそうであったことに気づかれたのでしょうか?

以前「縁に殺された」「忘我が必要」とコメントされていたと記憶してますが、
やはり体験的なものが必要な気がします。


2014.12.08 20:42
ことぶき様へ
>質疑応答だけで・・・「事実そのもの」に落ち着くことができたのでしょうか?すでにそうであったことに気づかれたのでしょうか?

こういう質問を書き込まれるということは、・・・
もし、参禅修行中であれば、「よそ見」をしておられる。
修行に「決着」がついたとおっしゃるなら、それは、まだ「途中」です。

>質疑応答だけで~やはり体験的なものが必要な気がします。

「?」と同化する時、落ち着きます。
いずれにせよ、ブログ(は、それなりの限界があるものの)を読んでいらっしゃいませんね。

以前申したように、こんな愚ブログより、ことぶきさんの老師さんに参禅してください。

そもそも、このブログは三聖病院入院体験者にはじめられました。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2014.12.15 00:48
ひのき
不識 さま


あけましておめでとうございます。
昨年もたくさんご指導いただき、お世話になりました。
本年も引き続きご指導いただければ幸いです。

ちょっと思ったことがあったので、よろしければご指導ください。
うまく表現できないのですが、ご容赦ください。

「普段の生活がそのまま坐禅です。」という言葉をよく見聞きし、
「はて、どういうことだろう?と」思っていました。


わいてくる「考え」は手のつけようがない・・・ですが、
五官と「意」とで六根とされていることが少々腑に落ちず、
なんとなく考えていました。
(「意」以外は物理的?外部からの刺激を受ける器官ですが、
「意」はちょっと違う気がしていたのです。)


先日、はたと思ったのです。
受ける(認識する)器官が異なるだけではないのか?と。

見えること、聞こえること、思えること・・・すなわち六根(身心)は
ただのレシーバーなのではなかろうか?と。
そう思ったのです。
考えがわいたこと、と、外で鳥がさえずっているのが聞こえてくるのは
同じではないでしょうか?
(受ける場所が違うだけ)


そうだとするならば、「普段の生活がそのまま坐禅です。」はその通りですし、
(全部受けっぱなし)
わいてくる「意」・「考え」は、聞こえる音・見える景色と同様、
ただのファクター(素材)に過ぎないのではないでしょうか?
(ファクターに善悪なし。)



釈尊は、大発見をしたのですね。
ものすごくずば抜けて聡明な人だったと痛感します。
「考え」で修行することを放棄した判断にも頭が下がります。
(ほとほと疲れ果てたのだとは思いますが。)

後世の私たちは感謝しなければなりませんね。



【追伸】
生活している中で、しょっちゅう「自忘」しているような気がするのですが、
気のせいでしょうか?
「自分」を立てて生活してることなんて、一日のうち半分ぐらいかも、と。

お風呂に「ふぅう~」と言って入る時、「ふぅう~」だけで、自分なんていませんもの。
2015.01.12 17:01
ひのき様へ
>「普段の生活がそのまま坐禅です。」

「平常心是道」と言い換えてもよいです。

>認識する器官

認識するのは、「意」だけです。

>考えがわいたこと、と、外で鳥がさえずっているのが聞こえてくるのは同じではないでしょうか?

そういうことです。

>お風呂に「ふぅう~」と言って入る時、「ふぅう~」だけで、自分なんていませんもの。

その最中には「ふぅう~だけで、自分なんていませんもの」とわからないです。
換言すると、その時、「自分」の状況を観察している(いわゆる「二人連れ」)とおもしろくないです。
そのとおりですか。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.01.12 22:15
ひのき
不識さま




>認識するのは、「意」だけです。

あ!そうですね。そうです。



>換言すると、その時、「自分」の状況を観察している(いわゆる「二人連れ」)とおもしろくないです。

観察はないです。ふと、「あれ?」と。



今日、たまたまとある老師の提唱を参禅者が投稿したつぶやきを発見しました。

【今やっている時に今やっていること以外にないから、その今やっている事で修行する以外ないんですね。だから洗面の時には顔を洗っている事によってこのように修行するんです。これで全部です、修行は。】


ありがとうございました。







2015.01.13 21:07
ひのき様へ
>>その時、「自分」の状況を観察している(いわゆる「二人連れ」)とおもしろくないです。
>観察はないです。ふと、「あれ?」と。

「あれ?」というのは?

>【今やっている時に今やっていること以外にないから、その今やっている事で修行する以外ないんですね。だから洗面の時には顔を洗っている事によってこのように修行するんです。これで全部です、修行は。】
「今」、「洗面の時には顔を洗っている事によってこのように修行する」と、意識しないでよいです。

「今」と認識した時には、それはすでに過ぎ去っています。
「今」を認識できないのです。認識するには、へだてが必要だからです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.01.19 00:03
ひのき
不識さま


いつもありがとうございます。
ひのきです。

いつも通りつたない文章ですが、ご容赦ください。


個人的なことですが、昨年末から週一回足裏のマッサージに通っています。

施術者の方に足の裏を押されると、
体は「何か」を感じる → 「痛い」という思いが湧き
体が感じる「事実」と湧いてくる「思い」には時差があると思いました。

しかも、足の裏で感じる感覚はさまざまで、
剣山を押し付けられたような感じや、圧迫されるような嫌な感じなど。

押されている「私の」「足が」「痛い」のではなく、
「何かわからないけど、何かを感じる」だけなのです。
(↑それを「痛い」という観念に置き換えているように思います。)


>「あれ?」というのは?

お風呂でも同じように感じたのです。
「気持ちいいなぁ~」の前に
しばらく「ふうぅ~」だけです。


>「今」、「洗面の時には顔を洗っている事によってこのように修行する」と、意識しないでよいです。

はい。承知しました。


>「今」と認識した時には、それはすでに過ぎ去っています。
>「今」を認識できないのです

おっしゃる通りですね。


ありがとうございます。

足裏マッサージ、面白いです。
目を閉じていると、「痛い・嫌な感じがあるけど、どこかわからない」が
パワーアップします。
2015.01.20 17:12
ひのき様へ
>体が感じる「事実」と湧いてくる「思い」には時差があると思いました。

そういうことです。

>「ふうぅ~」だけです。

(「ふうぅ~」も「湯」も「湯船」も「私」もないところに、)
「思い」がわいて、それで、「なかった」と気づくんです。

この「思い」が・・・なのかと気づくのです。

道元禅師は、「私」が脱落しました(身心脱落)といいにいったところ、
そうじゃない、もともと、脱落すべき「私」はなかったのだと如淨禅師にいわれ、
「自忘したんだという私」も脱落した(脱落身心)のです。

>「どこかわからない」

そう、
「無眼耳鼻舌身意」です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.01.26 18:46
ひのき
不識さま


承知いたしました。
いつもありがとうございます。

2015.01.29 16:38
ひのき様へ
「私」の方から「私」をどうこうしようというのがやんで、
ただ、状況に動かされ、することをしていた時、
「私」の「考え」「認識作用」が死んでいることがあります。
その時、「六根」の「縁」にふれて、ふっと「思い」が浮かんで、「認識作用」が動き、「認識作用」以前の世界に気づくんです。

「考え・概念」で捉えた「認識の世界」と「認識作用」が死んだ「あるまま事実の世界」は違うのです。
「認識」が死んだあるまま事実の世界は何の「問題」も生じなかったが、「考え・概念」=ナマの事実と勘違いすることで「問題」が生じるのです。
「考え」によって「自分」が立ちあがり、「考え」によってその「自分」を取り扱うことから、「迷い」が生じるので す。

「自忘」してはじめて、もともと自忘すべき「自分」はなかったんだと気づいた道元禅師は、修行を始めた時の疑問(生まれながらに「佛」であるといわれておるのに何故「修行」をするのか)が解消し、「本来本法性天然自性身」のとおりだったんだと頷いたんです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.02.02 00:05
ひのき
>「私」の「考え」「認識作用」が死んでいることがあります。

信号待ちをしていて、歩行者用の「ぴよぴよ♪」にはっとしたりします。



>「考え・概念」で捉えた「認識の世界」と「認識作用」が死んだ「あるまま事実の世界」は違うのです。

はい。「考えがわいた」ことは事実ですが、「わいた考えの中身」は事実じゃないですね。

よって、「思えたことの内容・中身」に事実はありません。しかしながら、「認識作用」を介在しない「あるまま事実の世界」については、まだ実感できていない(?)と思うので、おっしゃられるとおり、ただ、状況に動かされ、することをしています。

実際のところ、私たちは「いま」を認識することはできませんよね?認識した時は、もうとっくに過ぎ去っています。でも、「いま」を離れて生きていたことなんて一度もないですよね??不思議です。


頭で考えていてどうこう出来ることは何もないのは承知しています。仕事を持っていますので、どうしても見が立ってしまいます。最近はのほほんとのほほんのまま坐る時間をもうけています。

いつもありがとうございます。
2015.02.03 22:40
ひのき様へ
>「私」の「考え」「認識作用」が死んでいることがあります。信号待ちをしていて、歩行者用の「ぴよぴよ♪」にはっとしたりします。

そう。
「ぴよぴよ♪」が認識された時、その直前に「私」の「考え」「認識作用」が死んでいたことに気づくでしょう。
「私が死んでいた」と、その死んでいた時には、気づけない(わからない)けれど。

そして、その「気づいたこと」も忘れる。

(どうぞ交通事故にはご注意してください)


>「認識作用」を介在しない「あるまま事実の世界」については、まだ実感できていない(?)と思うので、おっしゃられるとおり、ただ、状況に動かされ、することをしています。

状況に動かされておるうちに、、、
「もの」も「私」も「ない」時があります。
「ない」「わからない」と「認識作用」が再び動いた直後に、そのように気づくということがあれば、その「わからなさ」は「へだて・距離」がなかった(「認識作用」が介在しなかった)ということです。
その「わからない」ことが「証」です。

そして、
すでに「証」されていたのです。
一つ一つの行ない、それ自体、「脱落」だったのです。

>「考えがわいた」ことは事実ですが、「わいた考えの中身」は事実じゃないですね。

「考えがわいた」ことは動いて変化しておるナマの事実ですが、「わいた考えの中身」は概念化された「事実」です。
「考えがわいた」こと、「わいた考えの中身」は、別ものだけれど、ともに、「法」であると言えます。

>実際のところ、私たちは「いま」を認識することはできませんよね?認識した時は、もうとっくに過ぎ去っています。でも、「いま」を離れて生きていたことなんて一度もないですよね??不思議です。

「私たちは、いまを認識することはできない」のは、「私たち」と、「いま」に、「へだて・距離」がないからです。
不思議=「思議・思議でない」、「思議」を超えておるのです。
思ったから、「このもの」が「ある」のではない、そういう「思い」以前にそういう「事実」です。

>仕事を持っていますので、どうしても見が立ってしまいます。

「外向き」に「考え」という道具を使うことは、けっこうです。(「外」も「内」もありませんが)

>最近はのほほんとのほほんのまま坐る時間をもうけています。

「その時・その場」の「因」と「縁」のよりますので、こうだと決めることができません

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.02.08 18:02
ひのき
不識さま


>(どうぞ交通事故にはご注意してください)

ありがとうございます。
今までは・・・。
せっかちな性格で、先のことばかりを考えて生活していたので、
一息遅くなった感じですから、
ちょうどいいと感じています。



>「考えがわいた」ことは動いて変化しておるナマの事実ですが、「わいた考えの中身」は概念化された「事実」です。

これは・・・。
因果の「果」(エビデンス?)ということですか?


>「考えがわいた」こと、「わいた考えの中身」は、別ものだけれど、ともに、「法」であると言えます。

はい。これはわかります。


>思ったから、「このもの」が「ある」のではない、そういう「思い」以前にそういう「事実」です。

はい。仰るとおりです。


>「外向き」に「考え」という道具を使うことは、けっこうです。(「外」も「内」もありませんが)

わかりました。


>「その時・その場」の「因」と「縁」のよりますので、こうだと決めることができません

仰るとおりです。
考えが次から次へとあふれることもあれば、ただそうあるだけの時もあり。
考えがあふれることがNGということではなく、その時は、そうだった、というだけですね。
なので、うまくできた坐禅 も うまくできなかった坐禅 もありません。

いつも貴重なご指導ありがとうございます。
2015.02.15 00:00
ひのき様へ
>せっかちな性格

これ以降は、このように「固定化・概念化」しないようにお願いします。


>「考えがわいた」ことは事実ですが、「わいた考えの中身」は事実じゃないですね。
>>「考えがわいた」ことは動いて変化しておるナマの事実ですが、「わいた考えの中身」は概念化された「事実」です。

「事実じゃない」=ナマの事実そのものでない、概念に置き換えられた事実という名の「概念」ということです。
それらは、「法」として「ひとつ」ですが、「別もの」といいたいのです。前者はつかめないそのものの「活動」、後者はつかめたつもりの「情報」。
同じでありながら別、別でありながら同じということです。

>因果の「果」(エビデンス?)ということですか?

すみません、おっしゃることがわかりません。

>考えがあふれることがNGということではなく、その時は、そうだった、というだけですね。

そうです。
良し悪しなし。

>うまくできた坐禅もうまくできなかった坐禅 もありません。

そうです。
そうして、「坐」によって「坐」を忘れてください。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.02.16 00:08
ひのき
不識さま


こんにちは。いつもありがとうございます。


>>「考えがわいた」ことは動いて変化しておるナマの事実ですが、「わいた考えの中身」は概念化された「事実」です。

「事実じゃない」=ナマの事実そのものでない、概念に置き換えられた事実という名の「概念」ということです。

ここがちょっとしっくりきません。

(しっくりこない時は、しっくりこないまま・・・です。)





>因果の「果」(エビデンス?)ということですか?
すみません、おっしゃることがわかりません。

原因:意が動く

結果:思いが湧く

ということかしら?と思った次第です。




>そうして、「坐」によって「坐」を忘れてください。

頭の片隅に留め置きます。「坐」によって「坐」を忘れる努力はしません。




※生野菜の例えは言い得て妙です。

概念が写真の野菜と(概念化された事実)言うことであれば、
思えたことはやっぱり(≠事実)という解釈になってしまいます。。
(ということで、しっくりこないので、放置です。)





追伸:

教えていただきたいのですが、不識さんはよく「外向き」「内向き」なる言葉を使われますが、「内向き」とは、「念を継ぐ」などと言われることでしょうか?

「念を継いでいる」と思っているだけで、継いではいませんよね?

「意」の働きに内も外もありません。ただ「意」が動いているだけです。

「内・外」という区別できる「明確な何か」(定義)はありません。。。



2015.02.19 20:57
ひのき様へ
>>>はい。「考えがわいた」ことは事実ですが、「わいた考えの中身」は事実じゃない
>>「考えがわいた」ことは動いて変化しておるナマの事実ですが、「わいた考えの中身」は概念化された「事実」です。
>「(考えの中身は)事実じゃない」=ナマの事実そのものでない、概念に置き換えられた事実という名の「概念」ということです。
>思えたことはやっぱり(≠事実)


同じことを言っておるんですよ。

ひのきさんが「はい。」と言われ、良く理解されているということで、「わいた考えの中身」は「事実じゃない」とひのきさんがいわれた事を言い換えただけです。

「事実じゃない」=概念化された「事実」と言い換えただけで同じことでしょう。
概念化された「事実」=分かる分からないの方から事実について語っている「概念」、「概念」であって「事実じゃない」です。

つまり、事実そのものを情報化した、言葉という媒介で写し取られた「観念」「概念」「見方」「考え」「思い」(カッコつきで「事実」と表現しているでしょう)は、事実そのものではないということです。


>しっくりこない

しっくりこない「説明」も、しっくりきた「説明」も、事実そのものではないということです。

「考え・概念」で捉えた「認識の世界」と「認識作用」がはたらく以前の「あるまま事実の世界」は違うということ。
(固定化された)「考え・概念」=(つかむことができない)ナマの事実と勘違いすることで「問題」が生じるということ。
以上が、趣旨です。

つまり、
「事実」を「ある」と認識すれば迷う、そこがはっきりしていれば、けっこうです。


>しっくりこない時は、しっくりこないまま・・・

しっくりこない時は、しっくりこないという「法」です。
わからない時は、わからないという「法」です。
わかる時はわかるという「法」です。
「法」に安住です。


>>そうして、「坐」によって「坐」を忘れてください。
>頭の片隅に留め置きます。「坐」によって「坐」を忘れる努力はしません。

「坐」によって「坐」を忘れとは、坐そのものにありきるということです。
そうあった上でそうおっしゃるなら、けっこうです。
もし、
それを修する(修しないで修する)ことなしに、「考え」の上で忘れるべき「坐」はないとわかっておるから努力しないとそうおっしゃるなるなら、それはご自身にとって面白くないです。


>追伸・・・

「内向き」とは、「このもの」を「自分」として、固定した不変の実体として認識して、その「考え」の上でその概念化された「自分」を対象にするということです。

>「念を継いでいる」と思っているだけで、継いではいませんよね?

実際にはね。

>「内・外」

以前から繰り返し申しておるように、「内・外」は実際にはありません。
「内・外」とあえて申し上げるのは、「内」(「これが自分」)を実際にあると思って、その虚構の中で作業する方に合わせて申しているのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.02.23 18:37
ひのき
不識さま


>同じことを言っておるんですよ。

重ねて説明をしてくださり腑に落ちました。。。
ありがとうございます。
お手数をおかけしました。


>概念化された「事実」       

の「事実」にフォーカスしてしまっていました。
自分の解釈(読み方・フィルター)で読解していました。


こうして言葉で簡単に振り回されるというオチで、笑ってしまいました。
(私の頭の中では“「概念化された」事実”にリプレイスされ、納得です。
実際はわからないまま放置していたので、振り回されてはおらず、
「???」だけです。)

大変失礼しました。




>しっくりこない「説明」も、しっくりきた「説明」も、事実そのものではないということです。

はい、そうですね。



>「法」に安住です。

あぁ、そうですね。そうです。



>それを修する(修しないで修する)ことなしに、「考え」の上で忘れるべき「坐」はないとわかっておるから努力しないとそうおっしゃるなるなら、それはご自身にとって面白くないです。

【「坐」によって「坐」を忘れる努力はしません。】は、
自分から向かわない、という意味合いです。

「坐を忘れるぞーー!!」と眉間にシワを寄せて坐るなど、坐を忘れることを目標にはしない、という意味でした。


不識さんからのアドバイスを「頭の片隅に留め置きます。」は、
そういう縁に触れたら、「あー不識さんはこのことを教えてくださったんだな」と思い起こした際の「頭の片隅」です。



>その虚構の中で作業する方に合わせて申しているのです。

わかりました。これも理解できず放置していたのですが、わからなかったのでお尋ねした次第です。


いつもありがとうございます。
2015.02.23 22:41
ひのき様へ
>「事実」 

このブログで、わざわざカッコをつけているのは、実体がないことを強調しています。(言葉自体が虚構ですが)

>【「坐」によって「坐」を忘れる努力はしません。】は、自分から向かわないという・・・

けっこうです。

>「???」だけ

「これが私だ」が立ち消えです。

>・・・と思い起こした際の「頭の片隅」です、、、

そう、いつもこのように、聞き流してください。
「分かったこと」を「へだて」をもって眺めていることと、
そのものにありきることは「別もの」です。
「分かったこと」を「向こう」に掲げて、それに向かって「自分」を持ち運ぶのでなく、
「その場・その時」のいきなりの「実生活」ですね。

よろしくお願いします。
合掌低頭(がっしょうていず)、不識
2015.03.02 00:04
ひのき
不識さま


いつもありがとうございます。


こころより感謝申し上げます。

2015.03.07 10:30
ひのき様へ
ありがとうございます。
合掌低頭、不識
2015.03.09 00:36

Post comment

  • comment
  • secret
  • 管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://miroku18.blog.fc2.com/tb.php/72-fc65e34c

最新記事

最新コメント

カテゴリ

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

リンク

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

QRコード

QR

カウンター