「玄旨」

「工夫は、ただ、人我の見を離る。
見を離るるの機要、
内虚にして、外事あるのみ。
これ人我を離るるの道。
これ坐禅の玄旨なり。」
(井上義衍老師)

「見」を離そうとしたら、いけません。
「工夫」とはただ(そのまま)実生活ということです。
結果として、「見を離る」のです。

「内」を虚にする段取りの後で、「外向き」の事をしなさいというのではありません。
「外向き」の事だけで足りるのです。

「外事あるのみ」というは、(禅とか、宇佐療法の話とか、何も教えも予備知識もなく、「外」「内」という話も出す余地のない、その場その時の状況いっぱいいっぱいの、いきなりの、)実生活です。
「外事」(眼前)に「一如」に動かされてあるようにあることが、自動的に(本人がわからずに知らずに)そのまま「内虚にして」と同時に(結果として)あるのです。
何故かと言えば、意識は、同時に、二つに向かうことができないからです。

合掌低頭





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.23 2015 あるがまま・如如 comment5 trackback0

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ただいま
不識さん

通りを走る車を見る(見える)のに、なんの努力もいらないように

「やるしかない」と 言ってしまうと

何をするのか?となります。

走る電車の音を聞く(聞こえる)のに、なんの努力もいりません。

「見」を離そうとしておりました。
2015.02.23 16:38
ただいま様へ
>通りを走る車を見る(見える)のに、なんの努力もいらないように「やるしかない」と・・・

そう、「自分」を中心にして「自分」の方から持ち運ばないということです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.02.23 18:44
ただいま
不識さん

今の様子です。

寝て、起きて、仕事して・・・

そこに展開される一日

その「今」を生きています。

湧いて来る心も、その一つです。

ただいま
2015.03.06 16:12
ただいま様へ
十分ご承知のことと思いますが、、、
「これが今の様子」という「説明」をした時には、それはもう過ぎ去っています。
しかも、
「これが今の様子」という「説明」と「今」と仮に呼ばれる実際とは別ものです。

分かった形で言葉に置き換えられる「説明」以前を「今」・「悟り」とか呼んでいるのです。


「今」に「徹底」しておられるその時は、、、
「今」は忘れられて意識されないのです。
そのように、再確認されて、「徹底」お願いします。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.03.09 00:35
ただいま
不識さん

承知致しました。

ただいま
2015.03.09 12:38

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