「生かされる」?

「生かされる」という表現を、よくききますが、「生かされる自分」とつながると
面白くない。
「生かされるもの」も「生かすもの」もないのです。
「・・・の自分」と認めて、概念化しないことです。

合掌低頭




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.16 2015 あるがまま・如如 comment4 trackback0

Comment

わや
お世話になっております。先日はありがとうございました。

不織さんのブログを読んでいると、仕事に生活に忙しくしていけばいいのだ。目の前のことに手を出していけばいいのだ。

というような決め事をつくることをしてしまいがちですが、そもそもそれがいけないと思ったことがありました。

さらにこの「いけない」というような決めつけもいけない。いけない。と延々と良悪に囚われてしまう。囚われてしまうと言いますと、それも悪いようにとらえてしまいまして、囚われないようにしようとすることもございました。

それから大分たち結局私はどうしたら。。分からない。仕方なく仕様がなく生きています。
2015.03.22 22:34
わや様へ
>仕事に生活に忙しくしていけばいいのだ。目の前のことに手を出していけばいいのだ。というような決め事をつくることをしてしまいがちですが、そもそもそれがいけないと、、、

それは、
「・・・すればよいという私」を中心にすえているということです。
「私」中心に「私」を持ち運んでいかない。
「仕事に生活に忙しくしていけばいいのだ。目の前のことに手を出していけばいいのだ。」というような「考え」「見解」でもって、その「自分」を取り扱わないでくださいと何回も申し上げているのです。十分ご承知でしょう。
今回、具体例として、よりよくおわかりいただけたと存じます。

そして、
その(虚構の、概念としての)「私」を、「もう一人の自分」が監視して評価し命令しないことです。

簡単にいうと、
「内向き」作業一切なし。「内向き作業一切なし」だとかまえるのでなくて、結果としてね。

ですから、
「目的」は、「外向き」。(その時、知らないうちに、それと同時に結果として「内向き」・「私向き」作業なし)
例えば、勤務時間中は仕事の達成が中心です。
仕事に生活に忙しい「仕事目的、生活目的」の実際には、「仕事に生活に忙しくしていけばいいのだ」という「私」目的のフレーズが出る余裕などないはずです。
「いっぱいいっぱい」ですね。


>囚われないようにしようとする

このように「自分」対「自分」になったら、延々と続くかもしれないのです。
これは「神経症」的「苦悩」のしくみです。
「囚われ」という「作用」を「私のもの」と認識するから、どうにかしようということになるのです。
換言すれば、
「考え」をもってこの「苦悩」を解決しようとするとどこまでいっても解決しないのです。
解決しようとすること自体が「苦悩」を作り出しているのです。
「囚われ」のままでありきったら、「囚われ」は「囚われ」でなくなってしまうのです。

ですから、
「囚われた」という「思い」が出た時、それは、それとして、ほったらかし手をつけない。結果として。
ただ、(その場その時の「目的」に)前進する時、(それと同時に)結果として、(知らずに)「囚われ」から脱しています。
(それは、「囚われ」から脱しようという「目的」ではないのです。)
十分ご承知のはずです、この機会に再確認してください。


>結局私はどうしたら。。

「どうしたらよいかの私」が立ち上がる時、そのように、「問題」がつくられるのです。

そのように「私」目的しないことです。
「私」目的にすると「自分」対「自分」になり、葛藤し、消耗します。
「このもの」は「私」と決めつけることからですね。

では、決めつけないようにしようとする「内面作業」では面白くないですね。
また、「自分」対「自分」になりますね。

ただ単に、
「結局私はどうしたら。。」まま、ぶっつけの、実生活。
その場その時、必要に、もよおされて。


>分からない。仕方なく仕様がなく、、、

そういうことです。

「分からない」と分かる。
「仕方なく仕様がない」仕方・仕様ともいえる。・・・という「理屈」が言えますが、、、
そういう、
「理屈」以前の「その場その時の状況」に「この身心」が投じられてあるまま。
「いっぱいいっぱい」です。

>生きています。

「私」が生きているのでないですね。
「これが私だ」という「考え」以前に、「因」と「縁」に応じて、宇宙的な「はたらき」が作用しているのです。

「これが私だ」という「見解」を忘れた時、
おのずと、いろいろな「原因」「条件」が合わさって、そういう得難い素晴らしい「はたらき」が作用しているの事を知るのです。
そういう「はたらき」にすでにまかせてあるんですから、乗っかっていくだけです。

「煩悩」の根源は、「概念化」です。
「概念」「考え」「言葉」「見解」なしで悩むことはできないのです。
具体的には、「このもの」を「私」という言葉でくくって、「私有化」したのが始まりです。

ただ、
「分からない、仕方なく仕様がない」まま、実生活。
そういうお題目でなくて、実際です。
その場その時の具体的な実行です。
その時、(それと同時に)結果として、(知らずに)「このもの」を「私」という言葉で決めつける、「私有化」から脱しています。

あらためて、ここで、「ただ、実生活」だなんて、もったいぶって言われんでも、すでにそうしていらっしゃるでしょう。
(「これが私だ」という「見解」がない時、)どうしようこうしようということなく、すでに日常生活の活動できているんです。ですから、あらたに、宇佐先生の講話やこのブログの「屁理屈」から何か学んで付け加えるものなどないのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.03.24 00:02
わや
 お世話になってます。ご返信ありがとうございました。

 悩みを解決する為にここにきていますが、それ解決しようとすることが悩みを作っているのですね。
 
2015.03.29 13:43
わや様へ
そうです。
よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.03.30 21:38

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