「法に異法なし」(信心銘)

「神経症」というも「法」です。「全治」というも「法」です。
「縁」によってそのような「作用」があるのです。
「内向き」に作業するか「外向き」に作業するかの違いだけで、
(いつも申すように、実際に、「内」「外」ありませんが)
「神経症」と呼ばれる「作用」・「全治」と呼ばれる「作用」になるのです。
その「作用」は、「私」の介在のない、ニュ―トラルで同じ「はたらき」です。
それを、「私」の「煩悩(神経症)」とするから、どうにか改善しようとなって、
「自分」対「自分」の努力・「内向き」作業になるのです。
その場その時に相応。生活そのまま。
合掌低頭




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.23 2015 あるがまま・如如 comment7 trackback0

Comment

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不識さん

このような詩があったと記憶しています。

我唱え 我聞くなれど 「なむあみだぶつ」 我を 助くる 弥陀のよびごえ

わしが言い わしが聞く 「このばかたれ!」  

「このばかたれ!」に意味はありません。

「あ~ステーキ食べたい}でも いいです。
2015.03.27 19:59
ただいま
 名無しで送信してしまいました。

 ただいま が 書きました。
2015.03.27 20:00
ただいま様へ
>我唱え我聞くなれど「なむあみだぶつ」我を助くる弥陀のよびごえ

「弥陀のよびごえ」はどこか他にあるのでないということです。
「弥陀」がどこか遠いところにいて、「我」を助けるのではないのです。

「たのめとは 助かる縁のなき身ぞとおしえて救う弥陀のよび声」(藤原正遠)というのもあります。
「我」を認め、その「我」を助けようと思ったら、何度やってもダメだよということです。
「我」が「助かる縁がないんだよ」ということです。
「我」を助けようとすること自体で苦しむということです。

「助かる縁がない」「もうダメだ」というところに落ち切ったら、それもひとつの「法縁」。
「もうダメだという私」も忘れられるほど、「我」を助けようとすること自体で苦しみぬいて、打ちのめされた釈尊のように。
「私向き」のやりくりがやんでしまうほかなかったんでしょう。
「私向き」のやりくりがやむ時、「もうダメだという私」もなくなるのです。

おのずと、「外向き」。
(繰り返しますが、「外」「内」ないですが)
「私向き」以外ということです。

つまり、ないものをあるとする、「虚構」である「これが私」を実際あることとして、「虚構」の中で、いくらやりくりしても違うよということです。
「これが私だ」という「見解」以前の、そのままの「はたらき」が作用するにおのずとまかせるしかなくなったのです。
知らず知らずのうちに。

例えば、要あってTVを見ていた時、聞く必要ないのに、救急車が通れば、サイレンが聞こえるでしょう。
「こちら」「私」という「見解」以前の、そのままの「はたらき」にすでにまかせてあったんです。
どこか遠くにあるのではない「弥陀」の「はたらき」です。

「このもの」を「私」して、余計な事をして、みずから苦しんでいたが、「私」を用いることがやんでみると、
助けるべき「我」はなく、「問題」がなくなってしまう。
すでに、作用するそのままで済んでいたのだと教わるのです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.03.30 21:36
ただいま
不識さん

>我唱え我聞くなれど「なむあみだぶつ」我を助くる弥陀のよびごえ


と書きましたのは、」この一つ読んだだけで、

「弥陀のよびごえ」と言う観念の世界で、

どうやったら、唱えて、聞いて、それが、よびごえ、なのか

と考えだすことを言いたかったのです。


>わしが言い わしが聞く 「このばかたれ!」  

「このばかたれ!」に意味はありません。

「あ~ステーキ食べたい}でも いいです。


と書いたのは、その「弥陀の助け」と言う観念ではなく、

その時「ばかたれ!」と思って言ってしまったら、それはそれ

その時「ステーキ食べたい」と言う思いが湧いて、「食べたい!」と言えば

それはそれ、食べれば、それ。


その今の実際が、裏を返せば・・・「弥陀のよびごえ」になります。

今の実際のままに生きることが、「外向きの生活」をすることが

すなわち「弥陀のよびごえ」(不識さんのことばでは「はたらき」)

になります。「弥陀のよびごえ」などないのですが。

こんな意味で書いたつもりしでした。


今までの私であったら

我唱え我聞くなれど「なむあみだぶつ」我を助くる弥陀のよびごえ

と聞けば、「では、なむあみだぶつ、と唱えて、それを聞く」これが

良いのだな、とか「弥陀のたすけ」ああ、ありがたい助けが待っているんだな、

と思ったとことでした、ですが、今の私は

この言葉の意味を

その時の実際の生活のままに生きる

そう捉えています。

それで、「なむあみだぶつ」と「ステーキ食べたい」が同じことで

あると書きたかったのです。

どうも筆足らずになりました。


>「このもの」を「私」して、余計な事をして、みずから苦しんでいたが、「私」を用いることがやんでみると、
助けるべき「我」はなく、「問題」がなくなってしまう。
すでに、作用するそのままで済んでいたのだと教わるのです。

今の生活に徹底する(さらに何かをするのではなく)

生活を「たんたん」とすることが、私のすることだと言うことです

単純に、自分のままに、目の前に動かされ、常に変化する目の前に

生活することです。


2015.03.31 13:28
ただいま様へ
>・・・と考えだすことを

どんなに立派な「考え」にしてせよ、「考え」にすぎないです。
「考え」は、この時この場の実際ではないです。

>今までの私であったら、、、

その背後に「今の私はこうだ」があります。
そういう「概念化」すると面白くないです。

>今の私はこの言葉の意味をその時の実際の生活のままに生きるそう捉えています。

そう捉えるそれはそれで結構です。
一方、
繰り返しますが、「私」を認め、「私」観察し概念化することです。
「意味をその時の実際の生活のままに生きるそう捉えての私」を中心にしていったら、面白くないのです。
つまり、そういう考えの上の「私」という虚構の中心に、「都合の悪い考え」を排除し「都合の良い考え」で行こうとすると「葛藤」が出てくるのです。

>「なむあみだぶつ」と「ステーキ食べたい」が同じことで

それはそうです。
それはそうでありながら、「私」を用いた時の「なむあみだぶつ」と、ただ、「なむあみだぶつ」と、お出ましになるのとは別ものです。

>生活を「たんたん」とすることが、私のすることだ

「弥陀の呼び声」は、「中心」のない・「核」のないまま、「縁」によって、自由に動くのですから。
「そう捉えての私」が「実際の生活」するのでないのです。
「意味をその時の実際の生活のままに生きるそう捉えての私」以前を、「意味付け」・「見解」以前を、「実際」「事実」「あるがまま」「そのまま」「ただいま」と仮に呼んでいるのです。
実際の生活中、幻覚でもない限り映画の字幕のように「実際の生活」なんて出る余地はないのです。
「実際の生活」は「実際の生活」なりです。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2015.04.05 18:34
ただいま
>・・・と考えだすことを

どんなに立派な「考え」にしてせよ、「考え」にすぎないです。
「考え」は、この時この場の実際ではないです。


ここでは、その「考えにすぎない」と言うことを言いたくて引用したものでした。


>繰り返しますが、「私」を認め、「私」観察し概念化することです。
「意味をその時の実際の生活のままに生きるそう捉えての私」を中心にしていったら、面白くないのです。
つまり、そういう考えの上の「私」という虚構の中心に、「都合の悪い考え」を排除し「都合の良い考え」で行こうとすると「葛藤」が出てくるのです。


目の前のこと、音、すること、あるくこと、その「いま」で、

葛藤はないと感じます。何か葛藤のようなもの(疑い)が湧けば、

その「いま」で消えていきます。


>「なむあみだぶつ」と「ステーキ食べたい」が同じことで

それはそうです。
それはそうでありながら、「私」を用いた時の「なむあみだぶつ」と、ただ、「なむあみだぶつ」と、お出ましになるのとは別ものです。


はい、そう思います。「なむあみだぶつ」に何の期待も、疑問も、希望も

ありません。ステーキの方が食べられるだけマシです。


>生活を「たんたん」とすることが、私のすることだ

「弥陀の呼び声」は、「中心」のない・「核」のないまま、「縁」によって、自由に動くのですから。
「そう捉えての私」が「実際の生活」するのでないのです。
「意味をその時の実際の生活のままに生きるそう捉えての私」以前を、「意味付け」・「見解」以前を、「実際」「事実」「あるがまま」「そのまま」「ただいま」と仮に呼んでいるのです。
実際の生活中、幻覚でもない限り映画の字幕のように「実際の生活」なんて出る余地はないのです。
「実際の生活」は「実際の生活」なりです。



>生活を「たんたん」とすることが、私のすることだ

→ 生活しております

2015.04.06 16:32
ただいま様へ
>>繰り返しますが、「私」を認め、「私」観察し概念化することです。

ごめんなさい。
この書き方ですと、誤解を生みますね。
「私を認め、その私を観察し概念化しないこと」と申したかったのです。

>>「意味をその時の実際の生活のままに生きるそう捉えての私」を中心にしていったら、面白くないのです。

ご「自分」を説明することは、ただいまさんにとって、面白くないと申し上げたいのです。

>目の前のこと、音、すること、あるくこと、その「いま」で、葛藤はない

「いま」と仮に呼ぶ時は、「目の前のこと、音、すること、あるくこと、葛藤」はありません。

>ステーキの方が食べられるだけマシです。

「ステーキの方が食べたい」という「考え」と「ステーキが食べられる」という実際は区別してください。
「観念」と実際は違いということをご確認ください。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識
2015.04.12 19:07

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