「神経症の全治」

「全治」というのはカルテ上の表現です。「神経症」は、「機能的障害」であり、他の「精神病」のような「器質的障害」ではありません。平たく言うと「病気」ではなく、「病態」です。
「病気」に違いないと思い込み、治そうと熱心に努力したことで「苦悩」が生じます。
「全治」は、治そうとすることが止んだ時、つまり、「外向き」の実生活中に現前します。
合掌低頭







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.29 2013 全治 comment2 trackback0

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ただいま
自分対自分のことについて、少し教えて下さい。
「こんなことで、大丈夫なんだろうか?」
「そうか、目の前のことか、でも、目の前と言っても
・・・・・・・・・
これは、自分対自分になります。
そんな考えが湧いたら、放っておいて、目の前のこと、
テレビを見ているのなら、そのことに専念です。

例えば
「待ち合わせしていたのに会えなかったな」
「もしかして、事故でもあったのだろうか」
「来る気持ちがなくなったのだろうか」
「でも、必ず来るって言ってたし」
・・・・・・・・
これも自分対自分になります。
自分が、どんなに想像しようと、事実は知ることは出来ないし、事実は一つです。
このような自分対自分をしていることも多いいです。

以前、言われてたように、目の前のことを判断して行動する時には、自分対自分も必要
でしょうが、
過去のことを判断するのに、自分対自分で迷っても仕方ないことがあります。

不識さんが言われる、自分対自分 は、あくまでも
自分の心の解決、についてもことに限られるのでしょうか?
よろしくお願いします。
2013.09.30 13:54
ただいま様へ

ただいまさん、ご質問ありがとうございます。

>目の前のことか、でも、目の前と言っても・・これは、自分対自分になります。


目の前と言われて、自分対自分になる時は、・・・
目の前に向かせようと「目の前に向いていない自分」と「目の前に向かせる自分」とが対立している時です。

このブログでいう「目の前」という方便は、「自分」以外のことに関わっていただきたいという趣旨ですから、
状況、生活上、必要に応じて、工夫されるなら、「内向き」の工夫でない、「外向き」の工夫をしていただきたいということです。



>「待ち合わせしていたのに会えなかったな」
「もしかして、事故でもあったのだろうか」
「来る気持ちがなくなったのだろうか」
「でも、必ず来るって言ってたし」
・・・・・・・・
これも自分対自分になります。



「自分対自分」は、「概念化した自分」を「相手」にすることです。
ですから、「概念化した自分」に対して、注文・コントロール・命令とすることで、結果、葛藤することになります。

上記のコメントは、
「外側」のことを「対象」に言ってるので、「外」に向かって思考していますので結構です。



>自分対自分 は、あくまでも自分の心の解決、についてもことに限られるのでしょうか?


そうですね。
自分対自分は、自己意識内容の範囲です。
つまり、
神経症が起こる範囲は自己意識内容内です。


合掌低頭 不識
2013.09.30 20:15

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