「感情」を相手にしない

有名な禅僧が、「怒り」を処理するに、「怒り」を認識して、あやしていくと説教されていた。
「怒り」を処理する時は、その「怒り」自体は過ぎ去っておるので気づくことできるのです。
処理しているつもりの「怒り」は、概念化された「怒り」・「怒りという概念」です。
それは、「実物」ではないので、「怒り」に処理することは、「虚構」の中の作業になります。
「処理」という言葉を使えば、「感情」には「無処理の処理」です。
「心(心意識)」を「私」するから、それを相手して、「良し悪し」という「見解」を立て、
「虚構」の中で、「私」流に作りかえたくなるのです。
「心(心意識)」に「良し悪し」なし。
「良し悪し」する「心(心意識)」なし。
「心(心意識)」をつかむことはできないのです。
合掌低頭




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.12 2015 他の療法との違い comment8 trackback0

Comment

わや
 こんにちわ。お世話になっております。

>「内向き」作業一切なし。「内向き作業一切なし」だとかまえるのでなくて、結果としてね。
>ただ単に、 「結局私はどうしたら。。」まま、ぶっつけの、実生活。 その場その時、必要に、もよおされて。
>ただ、 「分からない、仕方なく仕様がない」まま、実生活。 そういうお題目でなくて、実際です。 その場その時の具体的な実行です。

物事に集中していた時。テレビを見て笑った時。仕事生活の工夫をしている時。この時、私は辛い楽しい心が晴れたという見解が無しに、ただそのようにそのことをしている時があります。

このことを不織さんは内向き作業が無い実生活だと言われているんだなと思っています。しかし、集中とは、物事に集中していたと後から分かったことであって、自分から集中しようと思っても出来ません。仕事生活の工夫しようと自分自身に掲げても上手くいきません。突然仕事が舞い込んできて無意識に勝手にそのようにやっていて、後から気付くものです。これがよく言われます「結果として」ということなのでしょう。

これは自分からそのようにしようと思っても出来るものではありません。だからとりあえず、必要なことに手を出して行くということだろうか。でも手を出していくということを掲げると上手くいかないことを経験しました。だからといって、その無意識的に集中するような出来事を待っていたのでは、それまでの間ずっと自己嫌悪の辛い時間を過ごす事になるので、手を出していくしかないと思います。

神経症の苦悩を無くす為には、生活仕事のことだけを考え行動し工夫すれば無くなるでしょう。
しかし、苦悩を無くす為ではなくて生活の為でなければなりません。生活の為にしていたことが、結果的に神経症の苦悩が無くなるというだけであって、目的は生活でなければいけません。ただ人情としては生活の改善よりも神経症の苦悩を無くすことが最大の目的です。

目的は神経症を治すことでも、例えば生活に忙しくなってきて、生活のことで頭が一杯になって気付いたら知らぬ間に神経症の苦悩を忘れていたということが治癒なんでしょう。

それがそのようになることはありますが、忙しい時は続かず暇になると苦悩しています。
2015.04.12 17:39
わや様へ
>見解が無しに、ただそのようにそのことをしている時があります。

その時、「これが私」が立ち消えしているはずです。
もともと、「私」という中心はなかったと気づくのです。

>「結果として」ということなのでしょう。

そうです。

「外向き」のその「瞬時」は、おのずと「集中」です。
「意識」は、同時に二つに向かないからです。

>とりあえず、必要なことに手を出して行くということだろうか。

「必要」にもよおされて、「必要なこと」に手を出して行くという具体的な「実行」です。

「実行」の中には、「とりあえず、必要なことに手を出して行く」という「考え」が入る余地がないのです。


>それまでの間ずっと自己嫌悪の辛い時間を過ごす事になる・・・

その時にならないと、「辛い時間」を過ごす事になるかどうかは、わかりません。


>辛い時間を過ごす事になるので、手を出していくしかないと思います。

「私」の改良目的にならないようにお願いします。

>苦悩を無くす為ではなくて、、、、目的は生活でなければいけません。

そうです。

>神経症の苦悩を無くすこと

「人情としては生活の改善よりも神経症の苦悩を無くしたい」と思えることは思えるまま。

ただ、ご承知のように、
「即今」と仮に呼ぶ瞬時には何もありません。
そこに、
無くそうと努力することで「神経症の苦悩」を、
その都度、その都度、自家製してるんです。

「神経症の苦悩」という何かの実物のようなものがどこかあると思いこんでらっしゃるのです。

「苦悩」を固定的な実体として認識し、無くそうと相手にしなかったら、「試合」は成立しないのです。
「試合」は成立しない時、通り過ぎるだけで、「問題」として尾を引くこともないのです。

>生活のことで頭が一杯になって気付いたら知らぬ間に神経症の苦悩を忘れていたということが治癒なんでしょう。

「神経症の苦悩の私」が立ち消えていたのです。
もともと、なかったのです。
ですから、もう、「内向き」の熱心な努力は功なしです。

>暇になると苦悩しています。

神経症的「苦悩」の仕方は、「内向き」すればよいのです。
「苦悩しています」の瞬時は、ご自身で必ずそういう手続きしているのです。

「火」に触れて熱いと体得すれば、手を出さなくなるでしょう。
手を出さなくしようと「内向き」するのでなくて、
おのずと、手を出さなくなります。

「内向き」の熱心な努力は、もともとない、「私」をあるとして思いこんでいるからです。
「神経症の苦悩」は「葛藤」によります。
「このもの」を「私」と認識し概念化し、「苦悩」も認識し「私」物化するから、「私」流の「良し悪し」で改良しようとして、「葛藤」します。「自分」を「自分」で責めることになるのです。
「苦悩」も「私」のものじゃありませんね。

「苦悩」の時は「苦悩」のままにありきる。
つまり、
何か仕事のように動的に手を出すほかにも、「外向き」の静的な活動でもよいです。
例えば、
「見る」という活動(「見える」というはたらきにまかせる)、「聞く」という活動(「聞こえる」というはたらきにまかせる)という実際です。同時(結果的)に、知らずに、「苦悩」は「苦悩」のまま「苦悩」でなくなります。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2015.04.12 19:38
わや
ご返信ありがとうございました。

>ただ、ご承知のように、 「即今」と仮に呼ぶ瞬時には何もありません。
そこに、 無くそうと努力することで「神経症の苦悩」を、 その都度、その都度、自家製してるんです。

そう言われましても無くそうと無意識的に努力してしまいます。

>「神経症の苦悩」という何かの実物のようなものがどこかあると思いこんでらっしゃるのです。

思い込みで実物ではないと言われても、私が仕事が出来なくて頭の悪いということは事実で、それを思うと苦しいのです。それが実体ではないといわれても納得できません。本当に納得できれば、問題にはならないのでしょう。でも私にそれが出来ないから困っているのです。

>「神経症の苦悩の私」が立ち消えていたのです。 もともと、なかったのです。 ですから、もう、「内向き」の熱心な努力は功なしです。

もともとなかったのだと思えません。「私」をただ単に忘れていただけで、「私」はないとは思えません。だから内向きの努力は虚構の私に努力しても無駄だと言われても、そもそも「私」を虚構だと思っていないのにそれを言われましてもうなづけません。

>「内向き」の熱心な努力は、もともとない、「私」をあるとして思いこんでいるからです。
「神経症の苦悩」は「葛藤」によります。
「このもの」を「私」と認識し概念化し、「苦悩」も認識し「私」物化するから、「私」流の「良し悪し」で改良しようとして、「葛藤」します。「自分」を「自分」で責めることになるのです。

否定的な意見で申し訳ありませんが、それでは「私」をあると思い込んでいる考えを改めなければいけません。しかし、それは自忘しなければなりません。私は自忘するまで神経症を続け苦悩するということですか。

>「見る」という活動(「見える」というはたらきにまかせる)、「聞く」という活動(「聞こえる」というはたらきにまかせる)という実際です。同時(結果的)に、知らずに、「苦悩」は「苦悩」のまま「苦悩」でなくなります。

見るという活動、聞くという活動ということは普段通りのことですよね。ですから普段の通りに苦しいことに変わりはありませんでした。
2015.04.12 21:20
わや様へ
>無くそうと無意識的に努力してしまいます。
>でも私にそれが出来ないから困っているのです。
>「私」を虚構だと思っていないのにそれを言われましてもうなづけません。
>自忘しなければなりません。
>苦しいことに変わりはありませんでした。

という「私」を認めて相手するから、「問題」になるのです。

(神経症的に)「苦しい」時は、苦しむ「手続き」を踏んだのですから、「苦しい」。
当たり前と言えば当たり前です。
(神経症的に)「苦しい」時に楽しかったら、おかしいですね。
「苦しさ」を認めて相手取って、「楽」にしようとするから、後々尾を引いて「問題」になります。
わやさんが以前言われた解決しようとする時、問題になります。
相手することがなかったら、「苦しさ」と仮に呼ばれる状態は、ただ、過ぎ去るだけ。


>見るという活動、聞くという活動ということは普段通りのことですよね。ですから普段の通りに苦しい・・・

「見るという活動」、「聞くという活動」を「普段通り」というなら、
(神経症的に)苦しい時は、「普段通り」ではありませんよ。

「見るという活動」、「聞くという活動」の時、つまり、「外向きの活動」の時、「苦しみ」はありません。
同時に二つのことに「注意」は向かないからです。

「苦しい」時こそ、かえって、純一になれるのです。
どうぞ「状況」に促されて一歩一歩前です。

よろしくお願いします。
合掌低頭、不識

2015.04.19 21:16
わや
>という「私」を認めて相手するから、「問題」になるのです。
>相手することがなかったら、「苦しさ」と仮に呼ばれる状態は、ただ、過ぎ去るだけ。
苦悩の状況を認めて相手にしたのは結果的にです。やろうと思ってやっているのではないです。

>どうぞ「状況」に促されて一歩一歩前です。
例えばそれは、朝起きて、ご飯を食べて、はみがきして、支度をして、靴を履いて、出かけることでしょうね。それをしたからといって私の苦悩は消えません。

「それをしたからといって私の苦悩は消えません。」とこのように問題にするからいけませんと言われても、問題にすることは自動的にそうしている訳で、どうにもなりません。私だって、相手にしたくありませんよ。
2015.04.26 09:46
わや様へ
>苦悩の状況を認めて相手にしたのは結果的にです。やろうと思ってやっているのではないです。
>朝起きて、ご飯を食べて、はみがきして、支度をして、靴を履いて、出かけることでしょうね。それをしたからといって私の苦悩は消えません。それをしたからといって私の苦悩は消えません。
>「それをしたからといって私の苦悩は消えません。」とこのように問題にするからいけませんと言われても、問題にすることは自動的にそうしている訳で、どうにもなりません。私だって、相手にしたくありませんよ。

わやさんの「思い」、よくわかりました。

合掌低頭、不識
2015.04.26 19:05
わや
ご返信ありがとうございました。
2015.04.26 21:56
わや様へ
ありがとうございました。
合掌低頭、不識
2015.05.03 17:22

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